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梶谷真司「邂逅の記録47:「母」をめぐる哲学対話(3)」

2013.04.24 梶谷真司, Philosophy for Everyone

2013.04.23 「母」をめぐる哲学対話(3)

《種をもちかえる大切さ》

後半のセッションは全員での対話である。まずは、再びアイスブレイクとして、土屋さんの提案で「私-あなた」というゲームをした。みんなで輪になって立ち、ある人が自分の胸に手をやって「私」と言ってから、誰か自分で相手を選び、その人に向かって「あなた」と言って手を伸ばし、そのまま近づいていく。指名された人は、今度は自分で「私」と言って、また別の人を選んで「あなた」と言って近づく。それを繰り返していく。途中から二人同時に動き出すようにして、指名された人が「えっ、私?」と確認しながら、続けていく。何度も選ばれる人もいれば、まったく選ばれない人もいて、何がそうさせるのか分からないが、そういうことも含めてなかなか面白い。戸惑いと笑いで場がまたみなが打ち解けるいい機会になった。
さて、いよいよ後半のセッション。今度は全員で輪になって座り、「母」をテーマに話し合う。まずは話し合いたい問いをあげてもらった。「母と子は友だちみたいでもいいか?」「母の役割は何か?」「母親を1人の人間として感じることはあるか?」「母としての資格は何か?」「どうして母になろうと思ったのか?」「子どもが幸せを感じるような子育てはどうしたらいいか?」という多くの人が抱きそうな問いもあれば、「あなたが母親にかけられた呪いは何か?」という特殊なものもあった。こうした質問から、それぞれのお母さんたちが、何に悩み、何に関心をもっているかが垣間見える。こうして合計9つの問いが出て、哲学対話でよくするように、この日も多数決で話し合う問いを選ぶことにした。それで「母親としての資格は何か」が一番多く票を取った。けれども松川さんは、全員に目を閉じてもらって、「今日これについて話をするのはちょっときつい人はいますか」と聞いた。すると手を挙げた人がいたため、この問いはやめることになった。そして二番目に多かった「子どもが幸せを感じるような子育てはどうしたらいいか?」が、「今日はきつい」人もおらず、対話のテーマに決まった。

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このような配慮は、P4C(Philosophy for Children)で言われる「安心感」を確保するためにはぜひとも必要であろう。テーマによっては、話すことで傷つくこともある。もちろんしんどいと思っていても、話すことによって楽になることもあろう。どちらかは分からないし、周りが変に気を回すことでもない。だから、こちらから聞いて、その人が今日の自分の調子を考慮していいと思えばそのまま話をすればいいし、ダメだと思えば、そう意思表示すればいい。一人でも安心して話ができない人がいるなら、そのテーマはやめた方がいい。他の問いでも、結局は似たような話が出てくることも多い。特にこの日のように大枠として「母」というのがあれば、どこから始めても、きっと本質的なところは共通してした内容になるはずだ。
さて、かくして「子どもが幸せを感じるような子育て」について対話が始まった。中にはノウハウ的な話もあったが(別に悪いわけではない)、すぐに「子供にとっての幸せと親が考える幸せは違うのではないか」とか「そもそも幸せって何か」という本質的な問いに入っていく。そして「恵まれていて不自由していないというのを"幸い"と名付けるとしたら、それと実際に自分で実感する"幸せ"とは区別できるのではないか」という提案がなされた。他方、「そういう恵まれた状態をそのまま幸せだと感じることもある」という人もいた。また「親が幸せであれば、子どもはそれを見て幸せが何なのか分かるようになるのではないか」という意見が出ると、「親の幸せとは何か」ということになり、「子供がふとしたことで「幸せだ」と言ったのを聞いて、自分も幸せになった」とか、「子供の面倒を見ることができるだけで幸せだ」という発言が出た。
その他いろんな意見が、お母さんたちだけでなく、一緒に来ていた旦那さんや、学生、結婚はしているがまだ子供がいない人など、いろんな立場の人が意見を述べていた。特に子供のいない人は、子どもの立場から「親が良かれと思ってすることも子供にとってはうれしくない」という、おそらくは誰しも子供の時には感じたことのある気持ちを、改めて母親の前で代弁したので、話に奥行きが出た感じがした。こういう発言は、親子間ですれば、ケンカか愚痴にしかならない。けれども、哲学対話という形で話せば、冷静に客観的に話をしつつ、深めていくことができる。やはりここが単なるおしゃべりと違うところだ。

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話は尽きなかったが、時間が来て終了。最後に書いてもらったアンケートには、もっと話をしたかったという感想が多かった。しかし哲学対話にとっては、時間が足りないのもいいことなのだ。不満をもって帰る。この不満が、松川さんの言う「お土産」にもなる。つまり、物足りないから、さらに自分で考え、周りの人、家族とそれについて語り合うのだ。そうやって終わった後も対話が続いていく。これが哲学対話のいいところ、すごいところである。
当日も最後に述べたことだが、私自身は、哲学が世の中をよくするのに貢献できるとかすべきだとはあまり考えていない。そういうのはおこがましいことだ。むしろ哲学対話を通して、各自の中に種がまかれ、それが芽吹き、育っていく。そうやってそれぞれの人が自分自身の力で変わっていくのだ。その結果、世の中がよくなってもいいし、ならなくてもいい。けれども、一人一人の人生が、少しでも変わる。世の中が変わるとしても、その積み重ね以外にはありえないのではないか――哲学対話のワークショップをするたびに、そういう思いが強くなる。

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