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【UTCP on the Road】西山達也

2012.04.16 西山達也

 2年間にわたり(2010年度および2011年度)、UTCP中期教育プログラム「時代と無意識」に特任研究員(PD)として所属した西山達也です。

 4月より新たな土地に赴任し、荷解きも終わらぬまま新生活をスタートしている。荷解きは大きな荷物から整理すると効率的であるとされるが、UTCPという場で学び、新たな課題として私の小さな新居に運び込んだいくつもの荷物は、どれも大きすぎて途方に暮れてしまう。多くの荷物のうち、一番大きなものは、哲学をするということの方法、そしてそのディシプリンとは何かという問いである。

 哲学史の知識を学ぶこと以外に、哲学のディシプリンがあるとすれば、それは問い(プロブレマティック)を立てることだ、と答えることも可能であろう。しかし、そもそも問いを立てない「学」など存在するはずはない。それでも敢えて哲学は問いを立てること《だけ》をするのだ、と言うならば、何となくヒロイックな感じはするが、哲学的な主体のありようを限定しすぎている気もする。むしろ、「私は哲学をする」というときに、私が哲学をすることのコンテクスト、言語条件、時代状況、歴史に対して盲目的であることは哲学的でないように思う。この非盲目性を、私自身は「知識社会学」や「翻訳の問い」と呼んでいるのだが、この呼び方だけで十分な気もしない。哲学的であるためには、これらの知識社会学的ないし翻訳論的な構成要件を見通したうえで、同時に、これを看過しなければならない。

 たとえば私たちが哲学をするときにみずからの母語で哲学をするのは自明ではない。強調しておきたいのだが、UTCPではこのことを徹底して学ぶことになる。英語、フランス語、中国語、あるいはドイツ語で哲学することをUTCPでは習得することができる。そしてまた、これらの国民言語で哲学をすることができるのは、循環的な物言いになるが、これらの言語が哲学をすることのできる国民言語だからだという点に無自覚であってはならない。3.11以降の社会において、哲学は、技術や自然と人間の関係を問うこととともに、みずからの発する言語それ自体の問いに向き合う必要性をより強く突き付けられているのではないだろうか。

 2011年11月にフランス・ストラスブール大学ジェラール・ベンスーサン教授を囲んで、日本語、フランス語、ドイツ語でのワークショップを開催した。多言語での討議を通じて哲学的な問いの実践に取り組むとともに、この実践に伴う様々な課題をクリアする技法を学ぶことができた。そもそも未知の言語や見知らぬ土地への好奇心は哲学への関心と不可分であるはずだし、哲学的テクストを原語で読みたいという気持ちが語学習得の動機であってもよいはずだ。しかし言語の問い、地域の問いと、哲学的な原理をめぐる問いのあいだには、相互に相容れないとまでは言わないまでも、どちらに力点を置くかの選択を迫られる場面がある。私自身は、この選択をいまだ宙吊りにしている。両者の間の振幅を私自身の宙吊りの技法、そして哲学的なディシプリンへと変容させるきっかけが摑めたのは、UTCPに参加し、多くの仲間と切磋琢磨することができたおかげである。

 今後は、新たな形をとることになったUTCPという場――いずれにせよUTCPが巨大な「荷捌き場」でありつづけることには変わりないだろう――に、何か新たな荷物を送り届けられればと思う。小林センター長、事務局メンバー、同僚の研究員の皆さんに改めて感謝の意を表したい。ありがとうございました。

西山達也のUTCPでの活動履歴→こちら

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