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【報告】Uehiro Graduate Student Philosophy Conference

2012.04.11

2012年3月8日から10日にかけて、ハワイ大学マノアキャンパスにおいて、Uehiro Graduate Student Philosophy Conferenceが開かれ、総合文化研究科修士課程1年の入江哲朗、高山花子、横山翔太が参加、発表した。

毎年春に主に哲学を専攻する大学院生むけの国際学会として、上廣倫理財団の支援を受けて開かれ、今回もアメリカをはじめ、オーストラリアやカナダなど、様々な大学から20名以上が発表者として参加した。テーマは多岐に渡り、カントやハイデガーといった西欧哲学だけでなく、ナーガールジュナといったインド哲学など東洋を主題とした発表者もおり、ディスカッションや発表の合間の交流も含め、局所的な視野に留まることなく、複眼的な視野で哲学を試みようとする姿勢が強く共有される雰囲気であった。プログラムの詳細についてはこちらのウェブサイトを参照されたい。わずかな滞在ではあったが、終始われわれを開かれた対話の場にあたたかく歓迎してくださったハワイ大の方々、そして、今回我々の遠征を惜しみなく支援してくださったUTCPの皆様にはこの場を借りて深く感謝を申し上げたい。

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【発表報告】
Panel I: Aestheticsの最初の発表者であった高山は、"A Fusion of Religion and Artistry as Narratives"と題し、現代作曲家に委嘱され、舞台において僧侶により歌われた1980年代以降の声明作品において、仏教の宗教性がどのように現われているかを議論した。主に石井真木により作曲された「蛙の声明」(1984年)を分析し、伝統的な音概念が再構築されると同時に、現代詩を元に新たな物語が再編成されており、ある種の新しい仏教物語が舞台に生まれているのではないかという結論を提示した。質疑応答においては、religionとreligiousnessの区別の厳密さに加え、宗教から切り離されながらも確かに存在しながら芸術に作用する宗教性そのものの意味をさらに追求する必要性を提起されたほか、西欧における美学とのどのように関連付けて考えられるかという質問など、僅か10分の間に非常にクリティカルな指摘を多数頂くことができた。パネル後の休憩時間にも、他の参加学生と現代における芸術作品の物語性について議論があったほか、Roger Ames氏よりプラグマティズムにおけるキリスト教の宗教性に関する議論を参考にするとよいとのアドバイスが頂けるなど、最後の最後まで貴重なやりとりに満ち満ちた時間となった。楽曲分析を中心的に扱ったため他の発表者とはやや趣の異なる発表となったが、参加者同士の交流により様々な研究領野との連関や新たな視点を見出すことができ、今後の研究に大きな示唆を得ることができたことに心から感謝している。[以上、報告:高山花子]

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入江は10日の午前に、「シンパシー、エンパシー、テレパシー」と題する発表をおこなった。他人の情動を想像し自分の心に共有する〈シンパシー〉の働きは、社会を秩序状態へ導くためのもっとも基礎的な人間本性としてアダム・スミスに評価された。ところが、感情的交流の理想はしばしばスミスの想定を超えて過剰に追求される。そのような過剰がいかなる形態を纏ってきたかに注目し、ヨーロッパのロマン主義と日本の国学の文脈における〈エンパシー〉の理念と、20世紀のアメリカで熱心に研究された〈テレパシー〉という夢について跡づけることが、発表の主旨であった。
拙い発表ではあったが、ロジャー・エイムス教授をはじめ聴講者の方々から真摯で懇切なコメントをいただき、ハワイ大学の人びとの闊達さを痛感することしきりであった。参加している院生諸氏がみな研究熱心であることは彼らの発表からも十二分に伝わり、昼食時にもふとしたきっかけで、戦後日本思想史における今西錦司の位置づけをめぐりハワイ大学のマシュー・イゾール氏と議論を交わしたことは、滞在中のもっとも印象深い出来事のひとつであった。[以上、報告:入江]

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Panel III: Politics and Institutions では、タイトル通り、政治あるいは制度の問題に関する議論が四名の発表者によって行われた。リチャード・ローティの正義論、メルロ=ポンティの思想とジェンダー化された身体、そしてHawaiian Identityを巡る問題と、それぞれの発表内容は多岐にわたったが、我々の実存に関わるような具体的な議論を展開しようとする姿勢は皆に共通していたように思われる。筆者は、三木清の『構想力の論理』における「制度」の問題について、メルロ=ポンティと比較しながら論じた。その著作において三木は、主体と客体の対立をいかに綜合するかを自らの課題として挙げているが、法や言語といった諸「制度」こそが、その両者をつなぐ蝶番のようなものとして考えられているのではないかということ、そして、そのような三木の思考は、メルロ=ポンティが主体を「制度化するもの」として考えることで、哲学の「病」たる「構成する主体」の理論を批判し、他者との共存の思想を模索した文脈と共鳴しているのではないかと提題した。このパネルに参加することで、自分と少なからず似た関心を持つ若者が世界にいるということ、研究の舞台は図書館の片隅に限らず「世界」にも開けているということを実感した。

今回のConferenceは、ハワイ的とでも言うべき、明るく温和な雰囲気の中で行われた。質疑応答も、勉強不足や矛盾点を厳しく追及するのではなく、発表者の関心や視点を尊重したうえで、さらなる議論の深化のためのヒントを提示するといったものが多かったように思われる。初めて「海外」や「世界」という場を経験するには、まさに絶好の機会であった。西と東をつなぐ蝶番の地で、初めて出会う人々と、他者の言語で語り合い、若さに満ちた多様な思考に触れた貴重な経験を糧に、今後の研究生活を必ずや実り多きものにしたい。[以上、報告:横山翔太]

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