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【報告】UTCPセミナー「フランス第三共和政期とイメージの氾濫——1880–90年代の芸術家とポピュラー・イメージ」

2012.03.17 小泉順也, イメージ研究の再構築

2012年1月31日(火)、コラボレーション・ルーム3で「フランス第三共和政期とイメージの氾濫——1880–90年代の芸術家とポピュラー・イメージ」と題したセミナーが開催された。

今回のイベントが対象とする地域と時代は、2011年9月に開かれたUTCPワークショップ「エドゥアール・マネの絵画——イメージの等価性と操作性をめぐる試論」の続編となる。前回の舞台はフランスの第二帝政期(1852–1870)であったのに対して、今回は普仏戦争とパリ・コミューン、その後の不安定な政局を脱した第三共和政期の1880年代、1890年代に焦点があてられた。

副題に掲げた「ポピュラー・イメージ」とは、ハイ・アートとロー・アートの階層構造を意識しながら、主題と受容層の両面において、大衆を意識して生み出された一群のイメージを指している。つまり、人々の生活に根差した文化や娯楽を描くという対象、および、そのようにして生み出されたイメージの享受者という2つの視点から、大衆を取り巻くイメージの問題を捉えようとする試みであった。


【会場風景】

この領域については、従来の美術史研究の枠組みでは十分に検証されてこなかった。そしてまた、「ポピュラー・イメージ」という言葉が指している内容についても、漠然とした共通理解がありながら、たとえば「イマジュリー」や「大衆芸術」と呼ばれるものとの区別を踏まえた、明確な定義が提示されている訳ではない。実のところ、発表者や報告者のあいだでも、事前にきちんとした了解は得られていなかった。むしろ今回の発表と議論を通して、新たな輪郭や問題の射程が見えてくることを期待しながら、当日を迎えたのである。

初めに杉山菜穂子氏(三菱一号館美術館学芸員)による、「トゥールーズ=ロートレックのポスターにおけるイメージの生成と変容の過程」と題した発表があった。そこでは、同館で2011年に開催された「三菱一号館美術館コレクションII トゥールーズ=ロートレック」展を担当された経験も踏まえて、ポスターや準備デッサンのみならず、19世紀末の街路の写真や他の画家の関連作品も紹介する形で、精緻な報告と掲題が行われた。


【モンマルトルを描いた同時代の多様なイメージ】

たとえば、当時の人気歌手アリスティド・ブリュアンのトレードマークと考えられている赤いマフラーは、ロートレックのポスターを介して伝播していったイメージであったという。さらには、踊り子ジャヌ・アヴリルの一瞬の動きを捉えた写真が、ロートレックのポスターからインスピレーションを得て撮影された可能性がある点などが、説得力を持って示された。



【右から、吉田紀子氏、杉山菜穂子氏】

続いて、UTCP中期教育プログラム「イメージ研究の再構築」の外部協力者である吉田紀子氏(中央大学准教授)が、「シャレとスーラ――《サーカス》(1890–91年)に見る広告イメージの再解釈」と題して、ポスター・デザイナーの先駆者であるジュール・シェレ(1836–1932)と新印象主義の旗手であるジョルジュ・スーラ(1859–91)における、広義の影響関係について論じられた。

31歳で夭折した寡黙の画家スーラは、シェレに関する具体的言及をほとんど残していないという。しかしながら、最晩年に《サーカス》(オルセー美術館所蔵)に取り組んだ背景には、同主題をさかんにポスターで描いたシェレの存在があることが、多くのイメージを丁寧に対比させるなかで、見事に提示されたのである。


【サーカスを主題としたシェレのポスターの作例】

実証的な手続きを踏まえた2つの発表に続いて、質疑応答の途中に挟み込む形となったが、報告者がアルフォンス・ミュシャ(1860–1939)を中心に取り上げて、短い掲題を行った。荒削りな内容ながら、現代に通じる戦略的な商業主義が1890年代に確立されたとの見立てのなかで、ナビ派などの作例との比較において、ミュシャの特徴を浮き彫りにしようと試みた次第である。


【ヴュイヤールによるポスター(実はプロテインの広告)】

質疑応答では、第二帝政期と第三共和政期における、質と量の両面におけるイメージの生産と流通の変化が指摘されるとともに、劇場という舞台が主題となっている以上、作品の着想源を残されたイメージだけに求めるのは適当でなく、現場の体験や観察にも目を向ける必要があるなど、多くの貴重な意見が寄せられた。

図式的にまとめるならば、表現手段の多様化とともに、伝統的なタブローに拘るのか、あるいは別の媒体に活路を求めるのかという新たな問題に、多くの画家は直面することになった。タブローにポピュラー・イメージを取り込もうとしたスーラ、反対にアカデミックな教育に触れながら、ポピュラー・イメージのなかに新たな造形性と自らの個性を確立しようとしたロートレック、さらには商業主義的な成功をおさめた後、民族主義が色濃く反映された大掛かりな絵画の連作《スラブ叙事詩》に、人生の後半で取り組んでいったミュシャ(チェコ名ムハ)。こうした三者三様の立場の違いが、はっきりと意識される結果となった。

ポピュラー・イメージとは、ひとつの時代を生きる人々に心に刻み込まれた、体験をともなった記憶と言えるのかもしれない。それゆえ、同種の類似するイメージの氾濫のなかで、揺らぎを含みながら、ある共通項をともなうイメージが形成されていると考えるべきだろう。

石版画、エリオグラヴュール、写真など、各種のメディアの誕生と発達によって、19世紀末には第二帝政期をはるかに凌ぐ規模で、イメージが安価に大量生産されるようになった。そこには時代を席巻していた典型的要素と、そこから逸脱する造形的な個性や特徴が同居している。両者を選り分ける作業は容易でないが、多様なイメージを丹念にたどることで、当時のコーパスを概観できるような新たな視界が開けてくるに違いない。

ひとつの問題を徹底的に議論するというよりは、むしろ多くの課題を共有できたことが今回の成果であった。このような機会を作っていただいた杉山菜穂子氏と吉田紀子氏のご協力に、あらためて御礼申し上げたい。

【PD研究員 小泉順也】

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