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時の彩り(つれづれ、草) 146

2012.03.21 小林康夫

フランクフルト
 またまたブログが停滞していますね。残り少ないのに、ごめんなさい。

まず報告しておくべきは、フランクフルトの国際シンポジウムのことでしょう。3月8日−9日にフランクフルト大学で「Comparing Fukushima and Chernobyl: Social and Cultural Dimensions of the Two Nuclear Catastrophes」というシンポジウムが開かれました。UTCPのサイトでわれわれが「カタストロフィの哲学」のシリーズを行っているのを知った主催者からの呼びかけとあっては、ある意味では日本の代表として参加しないわけにはいかない。グローバルCOEの終了に伴うさまざまな交渉に忙殺されている身には少々きつい日程だったのですが行くことを決めました。

 ところがなかなかテクストを書いている余裕がない。わたしに割振られたのは,「Ethical Dimensions of ‘Fukushima’」というタイトル。さて、どうするか。結局、わたしが採った行動は、1日奇跡的にあいた隙間の日に、猛然とテクストを書くというよりは、まずは現地に行ってみる、ということでした。幸い現地に強い縁のある中島さんが案内をしてくれるというありがたいお申し出。それを受けて3月3日早朝の新幹線で福島に赴き、そこから雪深い、無人の飯館村を、ガイガーカウンターを手にして、訪れたのでした。そのときのさまざまな思いはここでは語りません。ですが、その道行きを手持ちのディジタル・カメラで写して、それを研究員の荒川さんに翌日編集してまとめてもらった。その4分あまりの映像をまずはシンポジウムでみなさんに見せたのでした。

 それは、ある意味では、(行くことができるところにいながら)現地に行くことなく、そこでの過酷な「沈黙の春」を感じることなく、「倫理」の言説だけを展開することはどこか倫理的ではない、という「感覚」があったのだと思います。その感覚を出発点に、飛行機のなかで懸命にとったメモに従って、下手な英語で30分喋ったのでした。こういう活動を10年もやっていると、へんな度胸だけはついてしまって、それがいいのか悪いのか。でも背に腹はかえられない、まったく時間がないなかでのいつもの「無理」でした。(このトークの内容は別な機会にもう少し整理して発表したいと思います)。

 わたしが参加したパネルのモデレーターは、以前、駒場キャンパスの同僚であったSteffi Richterさんでした。久しぶりにお会いして、彼女もとても仲がよかったので(三人で食事をしたことを思い出します)、北川東子さんのことをしんみりと語り合うことができたのが、シンポジウムとは別の深い体験でした。

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