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【報告】「近代東アジアのエクリチュールと思考」2011年度第9回セミナー

2012.02.24 └セミナー, 齋藤希史, 柳忠熙, 近代東アジアのエクリチュールと思考

中期教育プログラム「近代東アジアのエクリチュールと思考」のセミナー2011年度第9回目は「「対訳」の可能性と限界―呉檮の翻訳法から見られる清末民初「白話小説」の翻訳文体の実相」と題し、呉燕氏(発表者:東京大学総合文化研究科 特別研究員)、コール・ヒタ氏(Kohl Rita、ディスカッサント:比較・修士課程)を中心に行われた。(発表の部:12月3日、討論の部:12月16日)

【テキスト1】永田小絵「中国翻訳史における小説翻訳と近代翻訳者の誕生-前編」『翻訳研究への招待』(日本通訳研究分科会、2007年1月)
【テキスト2】永田小絵「中国翻訳史における小説翻訳と近代翻訳者の誕生-後編」『翻訳研究への招待』2(日本通訳研究分科会、2008年2月)

◆発表の部(12月3日):呉檮(生没不明)は、ロシア・アメリカ・日本などの諸国の文学を漢訳し、中国に紹介した人物である。彼の翻訳は、原本からではなく、日本語に訳されたものから重訳したものであった。中国において呉檮の翻訳については、白話で直訳する姿勢への高評価がある一方、「直訳」ではなく「翻案」であるという批判的な評価も存在する。呉燕氏によれば、こうした呉檮の翻訳への相反する評価は、直訳と翻案という現在の概念でもって、呉檮の翻訳を評価した結果生じたものである。むしろ彼の翻訳の意義は、彼が原本とした日本語作品とその訳し方を探ることによって見い出される。呉燕氏は、呉檮の翻訳文体が漢語と日本語との間だからこそ存在しえた文体であったと想定し、それを仮に「対訳」と呼ぶ。
 魯迅は自分の初期翻訳論で日本語を原本とする漢訳について述べている。日本語は、漢語に「循字移訳」が可能な言語である。日本語は、漢字語をそのまま用いて訳することができ、西洋語を原語としたときに比べて原語と漢語との齟齬が少ない。つまり、魯迅は日本語を漢語へ「直訳」できる言語として想定した。呉燕氏は、この魯迅の「直訳」論を「対訳」論として捉えるべきであると主張する。呉檮の翻訳は、まさにこのような後代の文学者の発想に合致する事例だという。
 呉燕氏は、1903年から1913年まで出た呉檮の翻訳作品における文体の特徴を三つのカテゴリーで整理した。まず、伝統の章回小説の文体規範に基づいて訳した文体。語り手が物語の世界に参入し、作品の世界を紹介したり出来事などを評価したりする、伝統的な白話小説の特徴と言える形式を踏襲しているものである。次は、純然たる「対訳」の文体。日本語の語彙とレトリックをそのまま用いて訳したものである。最後に、折衷的な「対訳」の文体。全体的に日本語原本の形式を重視しながら、伝統的な話法と言葉使いなどが混在しているものである。
 呉燕氏によれば、呉檮の白話文による「対訳」の特徴は、文語文と異なるリズムが感じられるということである。このリズムは、まず、章回小説のような伝統的な白話文が、聴衆を意識したため、読み手ではなく、聞き手の理解に相応しい文体で書かれた点に注意する必要がある。特に、呉檮は、文語文で頻繁に用いられる常套句を殆ど使っておらず、四字・四字・四字を組み立てることで生じる文語文のリズムを、三字・二字のような形で書き換えて異なるリズムを作っている。日本語の漢字熟語をそのまま用いて訳したことが、その要因の一つとなっている。
そして、伝統的な白話文が物語の叙述を重視する形式をとったことに対し、呉檮は、風景の描写を試み、白話文の規範からも異なる文体を駆使した。そうした結果、呉檮の訳文の文体からは、文語でも白話でもない感覚が読み取れることになる。呉燕氏は、呉檮の奇妙な文体の特徴を白話文の「詩性」だと称する。
 呉燕氏の発表について、翻訳作品が出現しはじめた清末期の文学空間と文学の近代化(西洋化)が生じはじめた民初期との間に位置する呉檮の翻訳作品を、日本語で書かれた翻訳物と創作物との関連で探ることは興味深いというコメントがあった。しかし、今日使われている「対訳」という言葉の意味は、原文と訳文を対照できるように並べて記すものであり、呉檮の翻訳を「対訳」として概念化することについては問題が提起された。

◆討論の部(12月16日):討論部は、ディスカッサントであるヒタ氏の質問から始まった。
 ヒタ氏はまず、「対訳」と「直訳」との意味区分を明確にする必要があると指摘した。その上で、もし「対訳」という概念語を使い続けるなら、「対訳」は日本語の文脈から、「直訳」は西洋語の文脈から捉えてみてはどうかという意見を述べた。
 次に、中国における呉檮の翻訳作品がどのように受容されてきたのかについて質問した。それに関連して、「白話文/文語文」という図式が「純文学/大衆文学」という図式として流用されうるかどうかについても質問があった。
 そして、呉檮は日本語語彙と表現をそのまま用いて訳しているが、中国語の規範から生じる意味のズレはないのか。もし意味上ズレが発生するなら、原文の意味との相違が生じることになり、こうした現象をどのように理解すればいいのか、という質問があった。
 最後に、呉檮の翻訳作品から見られる特徴と傾向が当時の翻訳空間の状況をどのように反映していたのかについて質問が出た。つまり、呉檮の作業が当時の一般的な翻訳作業の傾向として捉えられるどうかについての質問であった。
 ヒタ氏のコメントと質問に対し、呉燕氏は、まず、ここで答えられるもののみを答えると述べた。まず、呉檮の翻訳作品の受容層については、白話文で訳したとしても、それは大衆向けではなく、上海を中心とする都市知識人向けだったと答えた。そして、呉檮が訳した翻訳作品に書かれている日本語をそのまま移した漢字語は、現在の中国語の感覚としては原文の意味から完全にズレているという。しかし、当時の知識人にとってその語彙の捉え方は異なる可能性もあり、この問題については今後研究を続ける必要があると答えた。
 最後に、呉燕氏は、呉檮の翻訳作品を研究する意義を述べた。呉檮の作業は、受容者を重視する立場で原本の内容を改作する傾向が強かった清末の翻訳状況と、改作自体が内容を損なうという意見から直訳が主張された1910年代の翻訳状況との間の時期に行われた。そこで、彼の翻訳作品を検討することで、清末から民初にいたる翻訳状況の変遷の一面が明らかになると述べ、議論を結んだ。

(文責:柳忠熙)

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