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【UTCP Juventus Afterward】大橋完太郎

2011.09.14 大橋完太郎, UTCP Juventus Afterward

UTCPを巣立って新天地で活躍されている六名の方にUTCP Juventus特別篇としてブログ執筆をお願いしました。題して、UTCP Juventus Afterwardです。2回目は大橋完太郎さん(17-18世紀フランス思想・表象文化論)です。

 UTCPには特任研究員として半年、その後特任講師として昨年度一年間在籍していました。今年の4月からは神戸女学院大学で働いています。3月いっぱいまでUTCPで働いていたので、まだ東京を離れて半年ばかりに過ぎませんが、ずいぶんと時が経ったような気がしています。勤め先は関西の小さな大学で、ごく普通の大学教師として勤務する日々が続いています。慣れない場所での授業準備や会議、学生の世話など、近年の大学業務の例に漏れず慌ただしい時間を生きていますが、それと比べてもUTCPで過ごした駒場での時間はとりわけ濃密なものではなかったかという思いが拭えません。そしてそれはおそらくずっと消えることがないでしょう。とはいえ、AfterwardをRetrospectiveにしてしまうことには少なからず抵抗もあります。それでは何かが終わってしまったかのようではないですか。でも、そうではない、ようやく、始まったのだ、むしろそういう気分でいますし、いるべきなのだと思います。

 4月以降のことを少しだけ具体的にお伝えしますと、UTCPとの関連で言えば、震災の影響で繰り延べになっていた韓国・延世大学との共同ワークショップが6月11日に延世大学で開催され、わたしも一員として参加させて頂きました。今回の共通テーマは「批評と非-人間」というもので、日本からは小林先生、中島先生と、青山学院大学の竹内孝宏さん、群馬県立女子大学の日高優さんが参加しました。「非-人間的なもの」をめぐるこの集まりでは、文学、思想や演劇、写真などさまざまな分野から「非-人間的なもの」に関する考察が寄せられ、わたしもフランス現代思想のデリダにおける「人間の目的=終焉」やドゥルーズの「生成変化」について検討を行いました。いろいろと刺激的な反応をいただいたので、今までやってきたことも含めて、一つの論として仕上げていきたいものです。

 ほかには7月末に、オーストリアのグラーツで行われた国際十八世紀学会に参加してきました。十八世紀の博物学者ビュフォンの思想について、テキスト読解をもとにして哲学的な解釈を提示する発表を行いましたが、こちらは「本場」の学問的蓄積に圧倒されっぱなしの会となりました。ビュフォンに代表される文人的な博物学ではなく、膨大観察と分類に基づいて精緻な体系化を続けてきたドイツ式の博物学(その精髄はオーストリアの自然史博物館で見ることができます)との対峙はスリリングなものでしたが、学識的には完全に圧倒された感がありました。もちろん何人かのきわめて魅力的な研究者と面識を得ることもできましたので、今回の機会を今後の励みとするべく引き続き頑張っていきたいです。

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[写真1:グラーツの街]

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[写真2:ウィーン自然史博物館]

 ちなみに、グラーツで行われたこの学会に関しては、日本では耳にすることが少ない面白い存在についての発表が記憶に残っています。ヨハン・クリストフ・ガタラー Johann Christoph Gatterer (1727-1799)というゲッティンゲン大学で歴史学を教えていた人物についてのものです。当時の思想的流行であった「普遍史 universal history」の確立に向けて努力したのは彼だけではないのですが、ガタラーは、全世界の歴史的展開を一枚のマップ上にダイアグラムとして表わすやり方や、あるいはアルファベットなどの個々の要素をリンネが用いた植物分類法に基づいて並べるという方法で際立った独自性を放っていました。ガタラーは言うなればタブローとは異なる「ダイアグラム・マニア」的存在で、彼の残したダイアグラムの数々は、時代のエピステーメを先鋭的な仕方で示したきわめて興味深いもののように思えます。日本ではほとんど紹介されていないと思われる彼の著作を読み解くことは現在の僕には困難ですが、こうしたものの意義も考えていきたいと思っています。「フーコーの『言葉と物』にダイアグラムに関する言及はあったかしら?」「ドゥルーズが言うダイアグラムを、じゃあどういう風に考え直せるかしら」など、現代思想的な意味でも興味は尽きません。

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[図版3:ガタラーが残したアルファベットAの一覧。世界中のAにあたるアルファベットが、形態学的な法則のもとに並べられています。]

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[図版4:同じくガタラーが残した普遍史のダイアグラム。世界の各王朝の推移が一枚の表の上で表現されています。]

 書斎・図書館にこもって腰が重くなりがちな人文学者にとっても、国際的な交通のただなかに身を置くことは現在不可避なものとして求められているのであり、その意味でUTCPは将来の人文知の存在様態のモデルとなるべき存在だったと思っています。実際その活動から受けた恩恵は計り知れません。とはいえただ「外に出る」だけではだめなので、「外に出ても通用するもの」をしっかりと作り込むことを決して怠ってはならない、と日々強く思っています。グラーツに出かけていって通用したりしなかったりの一喜一憂のなかに、自分を成長させてくれるものがあると信じて、これからもたゆまず考え続けていきたいです。

 最後に少し自分の研究の大きなヴィジョンを語って終わりにしましょう。そもそも「哲学」は何のためにあったのか? きわめて大きい問いですが、やはり僕は、それは人間のためにあったのだと信じたいです。そうであるがゆえに、「哲学」は人間の条件を問い直し、人間を取り巻く諸条件を問い直し、厳しく自己を検定し吟味する学としての資格が与えられているのだと思います。そこには人間を立て直そうというヒューマニズムへの希求があります。だが同時に、人間は人間にとっての脅威でもあります。人間を悪く言い、人間に害をなし、人間を殺戮し、人間の根絶を目論むのは、多くの場合、人間、あるいは人間が生み出した何ものか、です。人間と、人間がなすこと arsの両義性がそこには含まれています。言い換えれば、人間は人間にとって非-人間的なのです。このテーゼをどのように捉えていけばよいのか、これが僕にとって当面の、そして大きな問題です。この一見した矛盾を解消(=止揚)するために、もはや合理的な弁証法を単純に適用することはできないでしょう。自己駆動する主体の弁証法がオートマティックに「敵」を産出し、その差異を繰り延べつつ自己を増大させる、僕にはこの仕組みが現代のグローバルな態勢と手を取り合っているような気がするのです。こうしたことを検証しその困難を解消したうえで新しい人間理解を打ち立てるには、どうやら途方もない時間がかかりそうです。でもどうしてもそれをやってみたい、とも思っています。人間が今のままのような人間であるならば、僕は人間でいることに魅力など感じない。ならばいかにして「非-人間」になるかを、積極的かつ具体的に考えてみたいのです。「非-人間」の言語使用はいかなるものか、その世界表象はいかなるものか、その共同性はいかにして打ち立てられるのか。こうした問いを抱えながら、凄惨な時代を生きた思想家たち(モンテーニュ、デカルト、スピノザ、ルソーなど)の著作をもう一度読み直すことから始めています。いささかクラシックな手法ですが、ひとまず自分にはこれしかないという気もしています。舫いを解く度胸を与えてくれたUTCPの関係者各位に感謝しつつ、またみなさまと、広い知の大海でときに出会いすれ違い言葉を交わせる日がくることを心待ちにしながら、自分の道を進んでいこうと思います。ではまた。

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