【UTCP Juventus】柳忠熙
【UTCP Juventus】は、UTCP若手研究者の研究プロフィールを連載するシリーズです。ひとりひとりが各自の研究テーマ、いままでの仕事、今後の展開などを自由に綴っていきます。今回は、RA研究員の柳忠熙 (日韓比較文化・比較文学 )が担当します。
昨年、私は「尹致昊の異文化体験とネーション―尹致昊日記(1883~1895)を中心に」という題の修士論文を提出しました。今回の UTCP Juventus では、これまでの私の問題意識が集約されているこの論文をご紹介いたします。
論文の内容を紹介する前に、まず背景になる尹致昊(ユン・チホ、1865~1945)の生涯と彼の日記について簡潔にふれておきます。
【アメリカ留学時の尹致昊と英語日記】
1.尹致昊の生涯
朝鮮開化期から植民地期に至る尹致昊の生涯は、朝鮮併合(1910)を境に前後を分けて考えることができます。朝鮮併合以前は、日本を始め、中国とアメリカへ留学した開化派官僚として朝鮮の近代化と独立のために尽力しました。例えば、韓国初の純ハングル新聞『独立新聞』(1896~1899)の主筆として活躍し、「独立協会」(1896~1898)や「大韓自彊会」(1906~1907)の会長も務めました。朝鮮併合以降は、寺内正毅総督暗殺事件(韓国では「105人事件」)(1911)に関わったとして投獄されますが、出獄後、朝鮮人の啓蒙を企図し、南メソジスト派の教育者として活躍します。例えば、朝鮮YMCAや延禧専門学校(現、延世大学)などの運営に携わり、植民地期の朝鮮人の教育において重要な役割を果たします。しかし、同時に、日中戦争の前後には総督府に協力した過去をもつ人物としての評価を受けています。
2.尹致昊の日記
尹致昊は、約60年間(1883~1943)日記を書き続けました。近代東アジアにおける知識人の著述の中で、尹致昊日記のような長期にわたる記録は希です。それゆえ、彼の日記は、朝鮮末期の風景のみならず、近代東アジア全体の様子が検討できる貴重な資料です。
尹致昊日記は三つの書記言語で構成されています。1883年1月から1887年11月までは漢文で、1887年11月から1889年12月まではハングルで、それ以降は英語で書かれています。この叙述言語の変化は、19世紀東アジアの言語空間の変動と個人の言語意識との関係性という点で興味深いです。大量の西洋語が流入し始めた東アジアの状況のなかで、一個人がその新たな言語とその背景になる文化に接しながら、それらを自分のものにしようとする際の悩みと苦闘がここから読み取れます。尹致昊の格闘の意味とそれをめぐる文脈を検討することを通じ、近代東アジアのダイナミックな言語空間の一面をみることもできます。
3.朝鮮知識人の異文化体験と日記
私の論文の目的は、朝鮮の近代知識人である尹致昊の異文化体験と彼のネーション(nation)概念の形成との関係性を明確にすることでした。特に、尹致昊日記のなかで、海外滞在期(1883~1895)の記録を分析対象としました。
私の論文は、以下の三つの問題点を軸として構成されています。
① ハングル日記に書かれた他言語「併記」を問題とし、尹致昊の異文化体験と言語接触との関わりについて論じました。
② 19世紀後半東アジアの言語空間を視野に入れ、尹致昊の英語日記に登場するnationという語の意味の範疇を考察しました。
③ 以上の論点を総合的に考え、異文化体験を通じて具体化された尹致昊のネーション概念について論じました。
4.尹致昊の言語意識とハングル日記
尹致昊の外国語習得は、異文化空間の経験と結び付いています。尹致昊は、1881年の日本留学をはじめとし、1885年から中国、1888年からアメリカへ留学します。日本では日本語と英語、中国では中国語と英語、アメリカでは英語を学習することになります。
前述したように尹致昊日記には、漢文・ハングル・英語という叙述言語の変化が発見されます。叙述言語の変化に関連して注目したいのは、叙述言語の変化の理由です。ハングル日記への変化が中国で、英語日記への変化がアメリカで起こった事実も興味深いものです。
しかし、尹致昊日記には、ハングル日記を記述し始めた理由が明示されていません。私は、ハングル日記を、尹致昊の「国文」意識にもとづく実験だと仮定しました。尹致昊の構想した「国文」 は、現代的な意味の「国語」の前段階のものです。
尹致昊は、異文化体験以前、朝鮮士大夫として漢学教育を受け、儒学的な政治思想を持っていました。彼は、近代国家形成過程の日本を経験し、西洋文明の必要性を自覚します。漢文ではなく諺文を「国文」にすることは、尹致昊にとって朝鮮を近代国家と化させる最も重要な方法でした。彼の日記には、朝鮮を表象する書記体系への願望と試みが見つかります。
彼の「国文」への試みは、東アジアの「知の体系」である漢文脈に裨益されながらも、そこからの脱出を企図するものでした。最初に彼が接した西洋知識は、漢文・漢字で訳されたものでした。彼が英語を通じて直接にその知識と向き合うことになってからも、彼にとって以前の漢学的なものは、排除できないものでした。
英語日記の主な記述理由は、朝鮮語の語彙不足です。尹致昊にとって朝鮮語は当時の世界を意のままには表現できない言語でした。結局、彼は、朝鮮語の表現力を問題としてアメリカで日記を英語で書き始めます。しかし、興味深い事実は、渡米した約1年間、彼がハングル日記を続けたことです。私は、ハングル日記に数多く見つかる多言語「併記」に注目し、この問題を考察してみました。ハングル日記における多言語「併記」は、尹致昊の言語意識の揺れであると同時に、彼の朝鮮語の語彙不足を補う翻訳行為の論理のヒントです。
ハングル日記が書かれた他言語空間(中国・日本・アメリカ)ごとに他言語「併記」の様相を検討しました。その結果、ハングル日記における漢字語の使用は、中国と日本のみならず、英語の言語空間であるアメリカでも、主な構成論理だったことが確認されました。尹致昊は、ハングル日記を維持する以上、漢字語に依存しなければなりませんでした。尹致昊の英語日記へのシフトは、単に朝鮮語の語彙不足によるものではなく、英語と朝鮮語の媒介語として機能した漢字語への翻訳行為を止めることだとも評価できます。
5.近代東アジアの言語空間と尹致昊のnation
1895年2月、尹致昊は朝鮮に帰国します。朝鮮出発時には、彼の日記は漢文によって綴られていました。10年間の海外滞留が終結したこのとき、彼の日記は、英語で綴られています。その変化は、尹致昊の思想の変移という面で象徴的です。朝鮮士大夫だった尹致昊は、多年間の異文化体験を通じ、近代知識人に変貌したのです。
彼の海外滞在期の半分を占める英語日記には、nationという語が多数見つかります。尹致昊の渡米後約1年間経った時点である1889年から朝鮮に帰国する1895年2月までの日記には、nationが86回使用されています。これの対して1906年までのnationの数は133個なので、この時期のnationの使用率は、相対的に高いと考えられます。尹致昊は、nationをいかなる意味で理解し、日記に用いたのでしょうか。
尹致昊日記に書かれたnationの意味を理解するには、まず彼の英語学習の環境を考える必要があります。最近は英語学習用の自習書と英語辞典などが数多く市販されています。しかし、尹致昊が英語を学び始めた時、朝鮮には英語と朝鮮語との二重語辞典(例えば、英韓辞典・韓英辞典)が存在しなかったです。それゆえ、尹致昊は、当時の日本語と漢文で書かれた英語書籍(英語文法書や英華・英和辞典など)を利用し、英語を学び始めました。1883年から1888年までの日記には、幾つか英華・英和辞典の購入記録が記されています。尹致昊が参考した英語辞典に載っていたnationの意味は、日記のnationを理解するヒントになります。尹致昊が語るnationと辞典のnationの意味は完全に一致するものではありません。しかし、そこから尹致昊が理解したnationをめぐる意味の範疇を把握することはできるでしょう。
尹致昊が参考した英華・英和字典のnationの訳語は、政治共同体を意味する「国」「国家」のような「国」と、「国民」「人民」のような「国の構成員」という二つのカテゴリーで理解できます。このnationの意味範疇の一般性を検証するために、同時期に日本で出版された他の英語辞典との比較を試みました。その結果、尹致昊が参考した英語辞典のnationの意味は、当時の英語辞典のnationの意味と合致することを確認しました。
尹致昊のnationの理解を辞書学的に検討するには、無視できない要因がもう一つあります。尹致昊がアメリカ留学期に参考した英英辞典です。アメリカ留学期の日記から、彼が『ウェブスター大辞典』を所有したことが確認できます。『ウェブスター大辞典』は、アメリカ式の英語に基づいた英語辞書で、その辞書のnationの意味は、国家の政治的な構成員として捉えられます。現在の国民国家の「国民」の意味に類似です。この項目には、附記が書かれています。附記には、ドイツの場合、nationを血統的で文化的な意味で使用するというエスニックな解釈が書かれています。
以上の nationの意味範疇から尹致昊日記の用例を検討した結果、彼の語るnationは、「国」と「国の構成員」という二つの意味で分けれるものも存在する一方、明確に分けて考えられないものも存在しました。そして、nationの用例が「国の構成員」と理解できる場合、主に国家の政治的主体の意味で、エスニックな意味を持つnationは、ほとんど存在しなかったです。尹致昊日記の nationは、近代国民国家とその国家の国民 (例えば、アメリカ人)を指す意味として頻繁に用いられたことも特徴だと言えます。要するに、尹致昊は、国家と国家の政治的構成員という意味として、nationを自分の日記帳に記したと思われます。そして、そのnationには、尹致昊の考えた近代国家像と国民像が含まれています。
翻訳されたnationの意味と英語で説明されたnationの意味、その二つの中で、尹致昊のnationの理解に、どちらの影響が多大だとは言い切れません。むしろこの二つの意味が彼の言語意識に混在されていたと言った方が正しいでしょう。そして、こうした辞書だけではなく、当時の書籍で登場したnation・国民・人民・国などの言葉、またそれが書かれた文脈についての尹致昊の理解も、彼のnationの理解に重要な要因になったと思われます。
6.横断する尹致昊と体験するネーション
数年間の海外滞在期に、尹致昊は、日本・中国・アメリカの社会・文化と、各国の人々を体験します。彼は、その経験を通じ、朝鮮の国際的状況と朝鮮人の現状を相対化させて思考することになります。彼は、諸国家と各国の人々を経験しながら、国家の独立と発展のために、近代ネーション創出の重要性を痛感します。その意味で、尹致昊の外遊期は、朝鮮の自主・独立を模索した時期だとも評価できます。
尹致昊は、1881年からの日本留学を通じ、新たな政治的な主体を経験します。渡日以前の彼の政治論は、国家政治の頂点である王を輔弼し、民を救恤することを根本とするものでした。しかし、彼が日本で目撃したのは、「民」が政治的な主体になって国家の重大事に積極的に参加する風景でした。彼は、明治日本の思想界の人々と交遊しながら、「個人」の「自由」「自助」という近代倫理と接することになります。まさにそれは日本の人々を政治的主体として動かす原理であることを認識します。これは、国家の政治的な主体としての「個人」を発見したことであり、近代ネーションの発見でした。
尹致昊は、駐朝アメリカ公使の英語通訳を務めたこととアメリカ宣教師が設立した学校に通ったことなどにより、アメリカ社会を近代文明の理想的な空間として想定していました。しかし、アメリカ留学期に、アメリカ人の人種差別や宗教的な不誠実などを経験した尹致昊は、アメリカを「理想と現実との乖離」が存在する「矛盾」の空間として捉えるようになります。しかも、尹致昊は、こうした近代国家の孕む「矛盾」が、アメリカのみならず、全世界の文明国に適用される原理であることを確認します。彼は、全世界的に澎湃していた帝国主義的な国家行為は、この「矛盾」が現実化された現象として理解しました。
しかし、この世界の「矛盾」は、彼にとって克服できないものではなかったです。彼は、国民一個人の努力に従って「理想」を「現実」にすることができると考えていました。近代的市民倫理を保つ「自助」的な国民の国家は、国の独立と発展を果たせると確信していました。この考え方は、「力が正義である」という原理に基づいています。尹致昊は、これを国際社会の現実原理として認めつつ、世界的に地位の低い朝鮮も「力」を養うことによって「正義」の基準を変えられると考えたのです。尹致昊は、19世紀の多数の知識人が魅了された社会進化論的な国際観の信奉者でした。
尹致昊の近代文明論は、相対主義的な側面を持っています。例えば、彼にとって「善」と「悪」の価値判断は、場所と時によって変化するものです。このような発想の核心には、「神」が位置しています。南メソジストの信者である彼にとってキリスト教の神は、不変な存在であり、人間の認識限界を超えたものです。「神」は世界秩序の基準点であり、それによって、世の中のあらゆる出来事が相対的に考えられるものになります。純粋な善悪は、神のものであり、世界にはそのバリエーションが存在するのみです。キリスト教は、尹致昊の生涯を通して大きな思想的土台となります。
尹致昊は、1885年以降の異文化体験を通じ、甲申政変以前の自分と、それまで自分に影響を与えた他の開化知識人との間に、思想的な線を引くことになります。自分の思想的基層だった儒教は、君臣関係に基づく儒学的政治論理をキリスト教倫理で相対化させることで、論駁の対象になります。
尹致昊は、約10年間の異文化体験を通じ、個人・国家・世界が相互影響の関係にあることに気づきます。彼は、国家構成員の意識と彼らの自らの政治的な行動が一国家の国際的地位を定める、と信じていました。帰国後、彼が朝鮮人を啓蒙すると同時に、布教にも尽力したのは、キリスト教による個人倫理の向上が朝鮮の「力」の伸長に繋がるという信念によることでした。尹致昊にとってネーション論とキリスト教の倫理は、不可分の関係にあるものです。朝鮮人の啓蒙は、数年間の海外で多様な文化を経験してきた尹致昊にとって、朝鮮の独立と発展のために、最も有効で実践的な方法だったのです。