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【報告】UTCPレクチャー「Reception in Distraction: The Experience of Artistic Images beyond Abstraction and Empathy」

2011.08.04 小澤京子, セミナー・講演会

2011年7月28日、駒場キャンパス101号館研修室にて、ステファン・シモンズ氏によるレクチャー「Reception in Distraction: The Experience of Artistic Images beyond Abstraction and Empathy」が開催された。

シモンズ氏は哲学、リベラル・アーツ、国際政治学のそれぞれを、ルーヴァン=カトリック大学、パリ第10大学、ニューヨーク社会研究所で修め、現在はルーヴァン=カトリック大の哲学研究所で教鞭をとる、新進気鋭の研究者である。このレクチャーは、ヴァルター・ベンヤミンがモダニティにおける特徴的な知覚と規定する「注意散漫/気散じ(distraction)」概念が、芸術鑑賞に本質的な形式であることを、対立的な概念である「感情移入(Empathy)」と「没入(Absorption)」の言説史も辿りながら、多彩な事例を挙げつつ論じるものであった。

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[ステファン・シモンズ氏]

シモンズ氏が最初に呈示するのは、ベンヤミンとジークフリート・クラカウアーによる、モダニティ特有の現象(映画、群集)としての「注意散漫」な知覚のあり方である。さらに氏は、現代的観点から「注意散漫/気散じ」を考察するための現代的な事例として、以下の3点を挙げる。すなわち、「ゴッホの描く太陽に幻滅する」キャプテン・ビーフハート(1941-2010:アメリカのミュージシャン、画家)、ロベルト・ヴァルザー(1878-1956:ドイツ語圏スイスの小説家)の1907年の小説『The Tanners』、ダンス・カンパニー「ローザス」によるパフォーマンス『Keeping Still Part One』である。

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[ジャン=バティスト・グルーズ《子供たちに聖書を読み聞かせる家長》1755年:父親の朗読に「没入」している左側の人物群と、子犬によって「注意を逸らされて」いる末息子とその乳母との対比に注目]

西欧の美学の伝統をなすのは、「感情移入」と「没入」という二つの作品鑑賞の態様であった。アリストテレス『詩学』中の演劇論や、ディドロの絵画批評で典型的に呈示されるこれらの概念は、二重の構造を持つとシモンズ氏は言う。まず登場人物(役者、画中の人物)が自らの行為に没入しており、ゆえに観者もその場面に引き込まれるという図式である。これは芸術作品の統一性と、そこで描かれている人物の持続的な同一性とを前提としている。このような発想を批判するための概念として氏が援用するのが、「注意散漫/気散じ」なのである。ベンヤミンが『複製技術時代の芸術作品』でこの語を用いたとき、前提としていたのは映画という近代的な表象技術が観者にもたらす「ショック効果」であった。しかし氏は、この概念はベンヤミンの想定した範囲を超えて、芸術作品の態様とその受容一般に敷衍できると主張する。ここで留意すべきは、シモンズ氏は「注意散漫/気散じ」を決して「注意」の対義語として捉えておらず、むしろその一態様に位置付けている点であろう。

芸術作品は分断され、統一性(単一性)を欠いている、と氏は言う。物質(メディウム、支持体)の次元と、表現内容の次元とがあるからだ。つまり芸術作品は、常に「他者への生成変化」と「差異化」の過程に置かれているのであり、このことは私たちが日常生活で出会す事物と変わりがない。

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[ヤン・フェルメール《デルフト光景》1661年:プルーストはこの作品の「黄色い壁上の小さな斑点」に着目する]

該博な知識が描きだす思考の軌跡――それはベンヤミンに始まり、クラカウアーの「大衆と気散じ」、ヴォーリンガーの『抽象と感情移入』、アリストテレス、グルーズを観るディドロやアベ・ド・ラ・ポルト、ジャンケレヴィッチの音楽論、プルーストによるフェルメール、フロイトによる精神分析理論、マイケル・フリードの『没入と演劇性』、ジャック・ランシエールの「Artistic Regimes」論にまで及ぶ――を経て、シモンズ氏は次のような結論を呈示する。すなわち、「注意散漫/気散じ」概念は、流動性や移ろいやすさと特徴とする「近代」に特有の現象であること(氏は明言しなかったが、この発想の背景にあるのはボードレールによる「モデルニテ」の規定であろう)。芸術作品の「他律性」により、個々人の美学的経験の自律性を揺すぶられることは、このようなモダニティの特質と直面するための「訓練」たりうることである。

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[会場風景]

レクチャーの後には、活発な質疑応答が展開された。プルーストにとってフェルメールの絵画それ自体が、支持体としての「壁」であったのではないか、という指摘や、グルーズの描く「没入」と「注意散漫」のコントラストが、聖書世界への無関心という「近代の開始点」を示しているのではないかという指摘、近年社会と医学を横断する問題となっている「注意欠陥障害」と「注意散漫/気散じ」との連関への問い、フッサール、メルロ=ポンティを経てレヴィナスによって批判的に捉えられる「感情移入」概念との異同の指摘などである。
氏のレクチャーは、「映画論者・近代メディア論者としてのベンヤミン」や「統一性と多様性、不動性と流動性との二項対立」などという、紋切り型の芸術批評を超え出る糸口を呈示するものであり、また私たちが目にしていると信じているものの不確かさを、再確認させてくれるものでもあった。なにより、才気に富んだ若手研究者との邂逅は、私たち研究員にとって多大な知的刺戟となった。長旅の疲れをものともせず、長時間に渡るレクチャーを行ってくれたシモンズ氏に感謝を捧げたい。

(小澤京子)

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