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【報告】文学と精神分析─「症例」ポール・ヴァレリーをめぐって

2011.07.07 原和之, └イベント, 山田広昭, 数森寛子, 精神分析と欲望のエステティクス

山田広昭氏による講演会が、6月27日に駒場キャンパスにて開催されました。

講演タイトルは、文学と精神分析──「症例」ポール・ヴァレリーをめぐって。学内外から多くの方々にご参加いただきました。

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文学と精神分析との関係を考える際には、精神分析以前と精神分析以降、という枠組みの設定がまず考えられますが、今回の山田氏の講演では、それに加え、フロイトと「同時代」という時代区分の必要性が示されました。1841年生まれのポール・ヴァレリーはこの「同時代」の作家にあたります。フロイト以前の著者は、当然ながら精神分析の理論を念頭におく必要が一切ありませんでした。それに対し、フロイト以降の作家たちは、常にその理論の存在を意識せざるを得なかった。そして「同時代」の書き手においては、そうした「以前」と「以降」とが混在していることになります。

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ヴァレリーは『カイエ』の中で、夢の分析を行い、望まない「反復」についての考察を行っています。これを山田氏は、ヴァレリーの精神分析に対する「抵抗」と呼び、フロイトの「無意識」に意図的に対置された概念として、ヴァレリーが1922‐23年頃から提示し始めた「錯綜体(Implexe)」の概念を分析するのです。引用されたヴァレリーのテクストからは、この作家の「無意識」の存在に対する強い意識が読み取れるのと同時に、「無意識」という概念自体が、未だ意味の揺れを含んだ状態で受容されていた当時の様子までもが鮮明に伝わってきました。

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山田氏は、精神分析と文学との関係は常に曖昧なものであることを指摘しました。作家に対する診断学的アプローチを行う応用精神分析や、作家から独立したものとしての「テクストの無意識」を分析する試みは、精神分析に心理の保有者としての特権的な地位を認めることによって成立するものでした。それに対して、ピエール・バイヤールは、この精神分析と文学の階層関係を問題化します。彼は「応用文学 Littérature appliquée à la psychanalyse」を提案し、個々の作品が内包する独自の心理学的モデルを救出することを目論むのです。しかしこの試みもまた、最終審級の不在により、不可能なものとならざるを得ないのです。文学は分析に抗うものであり、テクストが解釈される際、そこには必ずや、いかなる解釈によっても汲み取ることができない「残余」が現れてくる──しかし同時に、「意味」へのアクセスは、文学という回路を通じてしかあり得ない。山田氏による、精神分析と文学との関係の整理は非常に明確で、文学とは何か、という根本的な問題を再考する手がかりを与えていただきました。

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19世紀のフランス文学を研究している自分の関心からは、ヴァレリーによる夢の分析や記憶についての思索が、それ以前の文学からどのような影響を受けているのか、ぜひ次の機会にうかがってみたいと思いました。たとえば、ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』の中にも、明らかに「無意識的」領域の存在に対する意識と、その探求の試みが見られるからです。講演タイトルの、「症例」ポール・ヴァレリー、という表現には、この作家自身を、西洋の思想と文学の蓄積から産み出されたひとつの「症状」として捉えるという意図が込められていたのではないかと考えました。

(数森寛子)

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