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【報告】カタストロフィの哲学第3回「伝播する核のイメージ」

2011.06.20 中尾麻伊香, 安永麻里絵, カタストロフィの哲学

5月23日、カタストロフィの哲学シリーズ第三回、「伝播する核のイメージ」を開催した。UTCPリサーチアシスタントの安永麻里絵が司会を、同じく共同研究員の中尾麻衣香がディスカッサントを務め、パリ社会科学高等研究院より土山陽子氏をお迎えして、東日本大震災により俄にその再考が求められている、「核」をめぐるイメージについて議論した。

 3.11以降、今なお進行中の災害にいかに向き合うか。それが言葉を失うほどの状況であればこそ、このことを問うためにあえて語りだそう、というのがカタストロフィの哲学シリーズの出発点である。(第一回の報告は⇒こちら

 その第三回は、震災直後にメディアに氾濫した福島第一原子力発電所における事故をめぐるイメージを問題として取り上げた。この問題については、現代における報道・メディアの問題としての社会的検証と、「核」をめぐるイメージの最新の事例として過去の「核のイメージ」と歴史的な照応・検証という、二つの作業が必要である。今回は特に後者に重点を置き、ヒロシマ、ナガサキあるいは核実験、原発事故、といった「核」をめぐる様々なイメージの事例を参照しつつ、「核のイメージ」が言葉と結びついてある特定のナラティヴを生成していく過程について、その問題点を確認し、考察した。

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[司会の安永、福島第一原子力発電所のイメージの例]

 土山陽子氏による長崎の原爆写真とナラティヴの生成に関する発表を足がかりに、日米における「原子力」表象の相違を明らかにした中尾氏の応答、さらには原爆表象を専門にご研究されている小沢節子氏とパリで開催されたシンポジウム「日本:カタストロフの表象」に参加されたジャーナリストのIvan Vartanian氏からコメントを頂戴し、活発な議論が交わされた。議論の詳細は下記中尾麻伊香さんによる報告を参照されたいが、イメージが宿命的に孕むあらゆるナラティヴとの切断/結合の可能性、その影響や威力を再認識する一方で、それがカタストロフィという誰かが苦しめられている現実についてのものであるとき、私たちにはやはりそうしたイメージとナラティヴに対する批判的態度が求められているように感じた次第である。報告者の急な呼びかけにも快く応じてくださった土山さん、中尾さん、小沢先生、アイヴァン氏に心より御礼申し上げたい。
[以上、安永麻里絵]

土山氏は、「イメージの伝播と記憶の構築:長崎の原爆写真1945−1995年」として報告を行った。土山氏の報告は、長崎の原爆写真が辿った歴史から、イメージの伝播と記憶の構築をめぐる問題を検討するものであった。

土山氏ははじめに、「瓦礫の中のマドンナ」の写真を紹介した。この写真は、毛布をかぶった若い女性の写真で、3.11の震災写真として世界中のメディアで紹介され、いくつもの雑誌の表紙を飾ったりしたものである。なぜこの写真が、それほどまでに世界中のメディアで流通したのか。それは、配信システムの問題などに加え、古典的な悲しみの中にある女性像のイコンとして捉えられたことがあげられる。しかしこのイコンは、被写体の女性は誰なのか、いつどこで撮影されたのか、という背景情報を欠いて流通している。

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[発表する土山陽子氏と「瓦礫のなかのマドンナ」の写真]

土山氏はそこから、撮影時の文脈と切り離されて出来事を想起させるイメージの問題を提起し、この問題を考えるために、写真家山端康介が撮影した長崎の被爆写真の例を紹介する。山端康介が長崎への原爆投下の翌日に撮影した100枚以上の写真は、著作権も肖像権も保護されることなく、繰り返し、さまざまな文脈で用いられたという歴史があった。土山氏は、それらの写真が流通した経緯と、現代の歴史認識とともに展示されるようになるまでを辿った。

まず、山端の写真は、投下直後は日本軍の検閲によって、敗戦後はGHQの検閲によって、非公開とされた。山端の写真が大々的に公表されたのはGHQの占領が終わった1952年のことだった。写真集『原爆の長崎』が出版され、アメリカの雑誌『ライフ』でも山端の写真を用いた原爆特集が組まれた。その後、1955年に開催された展覧会「ザ・ファミリー・オブ・マン」、1958年に制作された映画『ヒロシマ・モナムール〔二十四時間の情事〕』では、山端の撮影した写真の一部が象徴的に用いられた。

山端の写真は撮られた文脈と切り離されて流通してきたが、西洋人に聖母子像のように捉えられてきた「お乳を与える母親」と呼ばれる一枚は、1970年代に被写体となった人物が特定され、さらにその20年後にNHKにより被写体となった人物への取材が行われ、長崎の原爆資料館に撮影者と被写体双方の証言とともに写真が展示されることになった。つまり山端の写真が歴史的な検証を経てしかるべき説明とともに見られるようになるまで、50年以上の歳月がかかったという。土山氏は、国を超えた原爆写真の流通の具体例を紹介しながら、こうした歴史から学ぶ危機管理ができるのではないかとして報告を締めくくった。

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[土山陽子氏]

土山氏の報告を受けて、ディスカッサントの中尾は、これまで科学技術の言説・表象という観点から行ってきた核のイメージ研究を踏まえて、いくつか問題提起をした。日米の博物館における原爆展示の研究から、きのこ雲と被爆者のイメージがそれぞれの博物館で象徴的に展示されていること、そんな中で不可視の放射線を可視化させる手法が大きく異なることを紹介した。また、原子爆弾の“効果”を記録するために撮られた映画の一部がその後流通していったこと、原爆写真には医師の撮影したものが多いことから、イメージの典拠となる写真や映像が誰によってどのような目的で撮られたのかという点も重要であると指摘した。さらに、オーラルヒストリーの経験から証言も変化すること、証言はその時代によって作られる側面があることを指摘し、写真と証言があわさって適切な歴史認識を持って展示されたという土山氏の見解に対し、その歴史認識は現代の歴史認識ということができるが、正しい歴史認識といえるのだろうかと疑問を呈した。さらに、検閲以外にも、被爆者への差別という問題があったことに触れ、イメージの背後にある表象されないものにどのように目を向け得るのだろうかと問うた。

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[ディスカッサントの中尾麻伊香氏]

その後、「原爆の図」をはじめとして、原爆のイメージ研究をされている小沢節子氏からは、今回の原発事故のイメージは特に目新しいものではなかったが、目を奪われたのは津波による水死体の写真であったいう感想がだされた。中尾が提起した、被爆者が想起する原爆イメージはカラーか白黒かという疑問点については、被爆者はカラーで原爆の絵を描く傾向にある一方、アーティストは白黒写真を撮りたがる傾向にあるという指摘がなされた。また、被爆者の存在が戦後しばらく忘れ去られていたことに関して、1952年にメディアに写真が掲載されたときは終わった戦争のイメージとして捉えられたこと、それが1954年の第五福竜丸の被災を契機に、国民が自らの問題として放射能を考えることになり、被爆者も核兵器の被害者として証言台に立つようになったという経緯が説明された。

写真編集者のアイヴァン・ヴァルタニアン氏からは、3.11後をはじめとして西欧メディアに流通しているイメージに、如何に聖母イメージが多いか、という指摘がなされた。

また、水俣病の写真を研究されている信岡朝子氏からは、長崎の写真と水俣の写真の伝播の仕方が似通っているという指摘がなされた。つまり、水俣においても、時代が経つにつれ、ピエタの図、女性、子どもの写真に収斂していくという過程があったという。それはアイヴァン氏の指摘とつながるものであった。

何故このように美しいイメージが残されていくのだろうか。中尾は、人びとは本当に悲惨な写真からは目を背けてしまうという現状があるのではないかと指摘した。写真というイメージに私たちが美的な感覚を求めるのであれば、それは災害時の現状とは常に乖離してしまうものなのかもしれない。

司会の安永は、沢山あるイメージからある支配的なイメージへと収斂されていく過程から、そこから取り残されていくものを気にしていく必要があるということ、それがいま私たちにできることであるだろうと締めくくった。

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[ディスカッション 左から安永、中尾、土山氏]

[以上、中尾麻伊香]

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