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【報告】「先端科学とヒューマニティーズ」第3回

2011.06.17 池田喬, 先端科学とヒューマニティーズ

2011年6月6日「先端科学とヒューマニティーズ」レクチャーシリーズの第3回目が行われた。今回は、東京大学医学部・UT-CBELの児玉聡講師により、「公衆衛生と政治哲学」に関するレクチャーが行われた。

 「公衆衛生の倫理」とは、人々が健康である条件を保証するために社会として集団で行う事柄にかかわるものである。新型インフルエンザを前にして予防接種を義務づけるとか、社会の健康増進のために公共空間での喫煙を禁止することなどが、例として挙げられる。しかし、公衆衛生政策を理論的に正当化しようとする時には根強い反論が待っている。この手の政策は、パターナリスティックに個人の生活や嗜好に介入し、公衆の衛生のために個人の自由を制限することにもなるため、健康ファシズムとの批判を呼び込む、というように。

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 今回のレクチャーで、児玉氏は、公衆衛生の倫理の概略を示した後、公衆衛生の問題状況と「政治哲学」の関係を論じた。ミル以来の自由主義の伝統においては、他者に危害を与えない限り、個人の自由は尊重されるべきであるから、疾病予防や健康増進活動のためにどこまで個人の自由を制限して良いのか、が繰り返し問題になる。そこで、公衆衛生の理論的正当化に際しては、共和主義の伝統の見直しが提案されている。自己実現のための言語(第一の言語)に対して共和主義的・聖書的言語(第二の言語)の復興を求める、R・ベラーからD・ビーチャムに向かう流れが一つ。また、所得格差など、疾病と健康の社会的な決定要因を明らかにする社会疫学的な見地から、信頼やネットワークなどのソーシャルキャピタルの重要性を説く、R・パトナムからI・カワチらへの流れがもう一つ、である。特に後者の流れは、公衆衛生を正当化する立論を健康ファシズムとして即座に退ける傾向を、かなりの程度牽制する可能性を感じさせた。

 馴染みのない分野の議論状況を概観できて有意義な会であった。同時に、考えていくべき事柄の多さに圧倒される思いもした。例えば、こうした議論において何が人々の「幸福」と考えられているのかが気になっている。平均寿命が長い社会と短い社会があった場合、前者は後者よりも望ましく、前者の住民は後者の住民よりも幸福だと「なぜ」言えるのかは考える価値があるように思われる。前者が日本の東京であり後者がブラジルのサンパウロだったとして、東京の住民のほうがサンパウロの住民よりも平均寿命が高いのは確かだが、前者のほうが後者よりも幸福であるかどうかと言えば、答えに迷う人はどちらの側にもいるだろう。たとえ寿命が短くなっても生活の細部に介入されることを拒むというアンチ公衆衛生的な傾向が根強いのは、おそらく、病が少なく老いるのが遅い社会がより望ましいと言える理由があまり自明でないことと関連しているように思える。

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 また、ある社会における病や老いの不在には肯定的価値がありその存在は否定的価値があるという標準的な考えに(部分的な)修正を迫るタイプの議論をどう捉えるのかのかも気になる。例えば、マッキンタイヤーは、病や老いをもっぱら人間が克服すべき対象と見なしてきた伝統を批判し、病や老いを人間の存在の条件に組み込んだ上で、病や老いは人間の弱さなどについて多くを教示する点で社会の共通善に資するという議論を展開している。この場合、病や老いはケアなどを通じてまさに信頼やネットワークを育むために貢献する要素と考えられるので、その克服を目指す社会という構想は、信頼やネットワークの重要な要素をカットする社会ということになるのかもしれない。このあたりの政治哲学的議論を公衆衛生の倫理学がどう扱うのかは興味のあるところである。

池田喬(PD研究員)

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