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【報告】UTCPレクチャー「藝術は合法か? 近世決疑論に照らして考える」

2011.05.20 荒川徹, 森元庸介, セミナー・講演会

2011年5月18日、森元庸介さん(UTCP共同研究員、東京大学大学院総合文化研究科)による講演「藝術は合法か? 近世決疑論に照らして考える」が行われた。森元さんはご自身の博士論文の一部をベースとし、近年は常識になっているような、芸術が合法的なものとして成立してきた歴史を、決疑論の伝統との関連で精密かつ具体的に検討した。

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決疑論(casuistique)とは、12-17世紀に発展した道徳神学の一部門であり、ごく簡単にいえば既存のルール適用の困難なケースを取り扱うものである(近年では、たとえばマイケル・サンデルや医療倫理のケースブックなどは決疑論的なアプローチであるといえる)。決疑論は新しい時代傾向に対応するものだが、「ゆるい」道徳として捉えられる傾向にあった。17世紀に廃れていった際も、決疑論家の立場(もちろん派閥はある)の道徳が極端に「ゆるく」なってしまったからだった。一方で、決疑論はそれまで抑圧されていた芸術を解放してきた立場であり、森元さんはそこに焦点を当てている。芸術といっても、問題となるのはキリスト教世界において遊興の一種、破廉恥なものとして排斥されてきた歴史をもち、中世から近世にかけて芸術の範例となっていた、演劇である。

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決疑論で論じられた具体例として森元さんが挙げたのは、たとえば「眠っているふりをした男が口にした異端的な言葉を告発できるか? しかも誰もが彼の寝たふりを確信しているときに?」という仮構の問題を扱ったもの。決疑論者は、否と考える。演劇においては劇中の言葉は内心とは関係がなく、舞台という「状況」がその記号に無関係さをもたらすからだ。森元さんはここで『ポール・ロワイヤル論理学』における記号の表示と隠蔽をめぐる問題と比較したが、決疑論家たちは記号が意味すべきものを意味しえないという状況に反応している。演劇は行為と意図の関係が切断されている仮構的な表象をつくりだすため実効性をもたず、「不真面目」であると捉えられる。演劇および芸術は、実効性の欠如により道徳的に中立化される。つまり、そのなかの行為は善くも悪くもないため、合法である。それこそが、決疑論家たちが作り出した芸術の合法性だった。

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森元さんは最後に、表現の自由、思想の自由といった問題について、自由を認められるとは「どうでもよい」と考えられることではないかという提起をして、自由をめぐる議論に決疑論的なアプローチがもつ可能性に言及して講演を締めくくった。

会場に満員の聴衆からは、現代論理学の問いとのアナロジー、芸術による法の変革可能性についてなど、活発な質疑がなされた。(報告:荒川徹)

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