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【UTCP on the Road】共生のエートス(大橋完太郎)

2011.04.04 大橋完太郎, UTCP on the Road

 PD研究員として半年、特任講師として1年間、UTCPでの研究活動および業務に従事させていただきました。それ以前にはあくまで一参加者として外から催しに加わっていただけなので、イベント参加者/研究員/スタッフという、グレードが異なる三様の関わり方ができたのではないかと思います。ここではあくまで自分なりに、UTCPにまつわる思いを書き留めてみたいと思います。

 内外の研究者から頻繁に出される質問は、「UTCP(本名「共生のための国際哲学教育研究センター」)が理念として掲げている「共生」って何なの?」というものです。これに対する満足な答えを(少なくとも「問い」に対する「答え」という形で)出すことは、それほど簡単ではありません。co-existenceであるとか、symbiosisであるとか、概念としてはおそらく色々あるのでしょう。とはいえ、その概念を精錬し、ひとつの「共生」概念としてインヴェントする目的のなかに、今までのUTCPの歩みが取りまとめられるとも思えないのです。(たとえばUTCPで行われた一つか二つの個別のトピック、「イスラームにおける動員の理論」と「ロボット哲学の未来」だけを取り上げてみても、それを同時に引き受け「共生」の概念として総合できるような人材は、今の世界には存在しないと思います)。自分としても折々に考え、うまく答えが出せなかったこの問題に、今ならたとえば、こう答えることができるのではないかと思います:「分からない、だから、やってみているんだと思う」と。

 端的に言うなら、「共生」とは思考対象とすべき観念ではなく、実践の傍らにつねに携えておくべきエートスなのではないかと思います。別の言い方をすれば、それは「あえて共生してみる」態度のなかにあります。実際、生きていく上では、自分にとっての利益関心と関係がないであろうものと共生する必要などおそらくない。僕は—―あえて自分の専門を言うならば――18世紀フランス啓蒙思想の専門家ですが、そんな僕のことを一生知らなくとも、たとえばある人が脳科学の専門家となって哲学科や医学部の教授となり人生をマネージしていくことは可能ですし、僕だって、その人や脳科学のことなど一向に知ったことではないといってプレイアッド版をめくりつつ生きていくことも可能です。少なくとも、人間社会というものは、そうした風にできているらしい。だがここ、UTCPではそれは許されません。所属している人たちはみな、自分が知らないもの、知らなかったこと、ことによれば未来永劫知る必要もなく知りたくなどないものが、日々の活動を取り巻いています。そうしてその「未知」あるいは「非知」の領域は、がんばって勉強を続けてきたはずの自分をつねにおびやかす(過去のOBの発言にあった、「居心地の悪さ」「孤独の中の共同性」あるいは「開かれ」といったものは、みなこの非-知の境位を指していたのではないかと思います)。そういった次第ですから、共生とは決して、調和的でも均衡的でもなければ、統一的なものでもありません。それは正しい意味で、「言語を異にするものと一緒にいる」ことなのです。

 UTCPのもうひとつの理念である「哲学」は、まさにこうした局面において問われるべきものです。かつて哲学が必要であったとするならば、それは哲学が万物を知る根源的知であったことに由来します。形而上学、存在論、どういった名前でもいい。哲学は既存のシステムの「上」ないしは「下」で、それを構成する事物や論理を可能にする条件や原理を明らかにすることにその役目がありました。ところが今では哲学研究やそれを基盤においた理論的研究においても、普遍性、一般性、あるいは統一性などの探求は理性の古い合目的的構造にとらわれた仮象に基づくものでしかないと見なされ、むしろ哲学の名のもとで現場的リアリティーに基づいた状況的な理論構築が求められる傾向があります(応用倫理学などが顕著な例でしょうか)。哲学はもはや根源的ではありえない。僕も部分的にはそれに同意せざるを得ません。すべてを知ることは不可能です。だがそれは、知というものが限定的であることを必ずしも意味しないのではないか、とも思うのです。わたしたちにはそれぞれにとって知らないことが存在する。だが、わたしの知らないことを知っている人たちと会話し、触発しあうことができ、場合によっては理解しあうことができるということを知ることは、限定された現代的知性の在り方を根本的に変える可能性があります(逆に、その限定条件を知らないで、すべてを説明可能であるかのように振る舞う態度に対しては警戒的であるべきだ、とも思います)。哲学とはその意味で言うならば、つねに自らを越えることを教えるような何かなのでしょう。「自らを知る」ために存在していた伝統的な哲学が、既存の「自ら」をどれだけ破壊しながら進んでいったのかということを少しでも振り返って考えてみるならば、これはまさに、哲学的試みの本流とも言えるかもしれません。

 そうなると、UTCPとは、「言語を異にするもの」と共にいることで、「自らを変える」ことを学ぶ場所だと言えるでしょう。そして、先に述べたように、それは、「自分を変えることはいかなることか?」という「〜についての問いかけ」だけで解決することはできません。それは実践を通じて、すなわちある状況を構築することや、与えられた状況に参与すること、あるいは特定の状況に対して自らを与えることによってのみ了解可能となるものなのです。変化とは固有の文脈抜きで達成されるようなものではないのですから。つまり、UTCPで走っているプログラムや企画とは、変わるためのテクストを与えるサブテクストであり、それを駆動しているのは、自らに飽き足らない、あるいは「このままではいけない」と思っている研究者たちの集合的無意識のようなものなのではないでしょうか。(優れた研究者がもつ個々の感性によって、洗練された「不足品リスト」を供出することができるならば、それはひょっとして、疲弊した今の時代に対する処方箋を提供することにつながるかもしれない、そうした可能性までもが、UTCPには存在しているように思えます。)

 別の言い方をするなら、UTCPの営為とは、「自らを変えたい」と思う人々からなる集団の布置とオーケストレーションによって奏でられた音楽のようなものです。あと一年でフィナーレを迎えるこの集団のかつてのパフォーマンスを概括してみても良いし、あるいは、あるヴァイオリニストにだけ注目してその旋律に耳を澄ましてもよいでしょう。そこには明らかに、現代の人文科学が抱える最先端の問題が、様々な仕方で存在しています(あえて難点を言うならば、音楽とそのテーマの関係と同様、センター内で行われる研究の目的と実際との関係が時として「分かりにくい」ことがあげられるかもしれません)。GCOEとしてこのような実験的かつ実践的な場が与えられたこと自体が、おそらく驚嘆に値することです(そして、この4月から始まる最後の一年は、今までUTCPが築いてきた「共生」の価値を示す年になるのではないかと思っています)。「わたしたちはもっと「共生」できるはずだ、なぜなら、今まで何人たりともうまく「共生」できていなかったのだから。」UTCPでおこなわれてきた人文科学研究の現場では、つねにこのようなメタメッセージが響いていたのではないでしょうか。「国際化」や「インターディシプリナリー」といった学問制度上流通している数々の題目は、この実践的共生の前では、もはや当然過ぎて意味をなしていません。制度論を論じるのは苦手なので、あくまで自分が関わったかぎりでの立場からの考えになりましたが、UTCPが単なる「哲学センター」でもなければ、「国際交流センター」でもないということだけでも、多くの方に分かっていただければと思います。

 自分の研究について書く紙幅がなくなってしましました。UTCPのような環境で過ごしても、うまく変われるひともいれば、そうでない人もいることでしょう。自分はうまく変われただろうか、変わるためのきっかけを十分手に入れることができただろうか、そんなことを時折自問しながら、これからの日々を過ごすことになりそうです。非人間的な天災・人災が猛威をふるう昨今の状況で、人文学的な(すなわち、「人間的な」)知性になにができるのかを問い続けながら。最後になりましたが、今まで僕がUTCPで関わることができたあらゆる方々に、心からの御礼を伝えたいと思います。ありがとうございました。遠い神戸・京都の空から、みなさまのご活躍とご健勝を切に願っています。これからも、よろしくお願いします。

大橋完太郎さんのUTCPでの活動履歴 ⇒ こちら

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