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【報告】「近代東アジアのエクリチュールと思考」セミナー報告最終回

2011.04.01 └セミナー, 齋藤希史, 津守陽, 近代東アジアのエクリチュールと思考

第16回のセミナー最終回(発表1月21日、討論28日)は「「春昼」「春昼後刻」における語りと「幻想」」と題し、山崎はずむさん(比較・修士課程)による発表と、津守陽さん(UTCP)によるコメントを中心に行われました。

◆ 発表の部(1月21日)では、泉鏡花の「幻想的」な二部構成の小説「春昼」「春昼後刻」(以下「春昼」で総称)を題材に、この作品に見える「非人称的な語り」と作品の「幻想性」の生起との間にある関連に焦点をあてた。「春昼」はその象徴性・幻想性に富む内容から、80年代以降様々な角度から謎解きが試みられてきた作品である。発表者は「散策子」を主人公とする三人称語りの「春昼」が、時折地の文の記述において、語り手の視覚か散策子の視覚なのかが不分明な「非人称的語り」になっていると指摘し、鏡花の他の作品と比較することでその効果を探った。例えば一人称語り(「化鳥」)では、「幻想的」な出来事は常に(もしかしたら信頼できないかもしれない)語り手の夢や妄想に還元される可能性をはらむ。また揺るがない三人称語り(「薬草取」)の作品では、「幻想性」を含む風景も、距離感を持って登場人物を眺める語り手により、物語世界の中で現実に起こった「事実」として担保される。これらに比較したとき、人称が決定不能な語りを持つ「春昼」は、それにより物語世界の現実がゆらいだ「異界」をはらみ、読者を「幻想」へと誘う、というのが発表者の結論である。

◆ 討論の部(1月28日)では、発表時に今後の課題として自ら示した、「近代以前の日本文学にそもそも三人称はあったのか」という疑問について補足があった。野口武彦『三人称の発見まで』の議論によれば、江戸文学に存在していたのは「超越的一人称」「世俗的一人称」と野口が名付ける語り手の存在が明白な語りのみであり、近代に入ってはじめて言表行為性を抹消した三人称客観の語りが現れる。発表者は、「三人称が当たり前になったことで、かえって古典文学には存在していた非人称の語りが異質なものとして認識されるようになったのでは」という齊藤先生の指摘を踏まえ、「春昼」の異界性を再度確認した。
一方コメンテーターが指摘したのは、一人称或いは作中に姿を現す語り手ならば「信頼できない可能性がある」とし、三人称の語り手ならば「物語世界の現実として担保される」という判断が頼っている、一種の「常識的判断」の危うさであった。またコメンテーターは、「春昼」に散見される、一見普通の三人称客観の語りに見えながらも、きわめて強く(誰のものなのか判然としない)主観や視線を強く盛り込んだ風景描写に着目し、むしろここにこそ語りの「異質性」が見えるのではないかという見解を述べた。討論はここから発展して、まるで「語る」行為や「語られる言葉」が小説創作の中心位置に復権してきたかのような鏡花の文学が持つ意義、及び「春昼後刻」末尾に見られる「異なる文体の意図的な混合」の手法、語り手の主体性の分裂と浪漫派の関係などについて議論が交わされた。

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