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【報告】金成恩「国語と聖書―植民地朝鮮の旧約聖書翻訳から」

2011.03.24 └レポート, 齋藤希史, 守田貴弘, 近代東アジアのエクリチュールと思考

2011年2月23日 (水),高麗大学日本研究センターの金成恩さん,一橋大学の安田敏朗さんを迎えて「国語と聖書−植民地朝鮮の旧約聖書翻訳から」というワークショップを行った.中期教育プログラム「近代東アジアのエクリチュールと思考」の,本年度最後のイベントである.

基調となる金さんの講演は「植民地時代のハングルの綴り方をめぐる問題」を中心に,歴史的に何が起こったのか詳細に説明するものであった.

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キリスト教を布教するに当たり,宣教師たちは庶民向けの布教を目指していたため聖書をハングルに翻訳し,ハングルで教育を行い,綴字法そのものを整備した.このことは,「女子供の文字」と捉えられてきたハングルが「国民の文字」となる基盤となる.
しかし,話はこれでは終わらない.ハングルを中心とする「朝鮮語の国語化」にとって先駆的な役割を果たしたキリスト教会だが,その後のゲールによる綴字法の提案 (1902年),朝鮮語学会による統一案 (1933年) など,他の雑誌や新聞などが採用した基準をことごとくはねつけ,「国語の統一」という点から見ればむしろ分裂的な役割を果たし,1952年の新綴字法による翻訳聖書が刊行されるまで,初期の役割からは逆行していたのである.

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多くのことが議論の題材となったのだが,その中でも方言の問題,標準語化の問題,そして何よりも音と文字をめぐる問題がここでも見出された点が非常に興味深かった (以前のシリーズ「国語に思想はあるか」とも通底する).1つの文字は1つの音を反映すべきだという主義で出発したところ,国内で「そもそも音が統一されていない」という現実に直面し (安田),多数のキリスト教徒を抱える北西地域で綴字法に反発が起こる.日本語はアクセントまでは表記しないため,見た目には同じ文字でも多様な発音を許す側面があるが,ハングルは「表音」を存在理由にしているため,ここで決定的な問題が生じてしまう (齋藤).

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最終的には「文字は音を反映する」のではなく,「文字に書いてあるように発音させる」ことによってしか統一できないところに向かうしかないと考えられる (日本語の標準語政策も基本的には同じである).

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このような分裂的な状況になった背景として,金さんは宣教師・教会による「統一」の感覚と,総督府の感覚,そして現地の独立を求める知識人の感覚が異なっていたことを挙げた.さらに,安田さんの質問に答える形で,「国語審議会に宗教者の席はないが,韓国の標準語政策では宗教が役割を果たしているのが特徴的な違い」という指摘もあった.いずれも興味深い指摘だった.

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東アジアとエクリチュールをキーワードに展開してきたこの中期教育プログラムのイベントは,このワークショップをもってひとまず今年度の活動を終えることになった.国語,国家,文字と音,方言と標準語,ノモスとピュシスとしての言語など,論点は複数のイベントで共通することが多く,いずれも簡単に解決できるようなものではなかった.文学や言語学など,異なるバックグラウンドを持つメンバーがそれぞれの課題に取り組んできたわけだが,引き続きより広い視野から,言語が持つ問題に迫っていきたいと思う.

(守田貴弘)

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