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【報告】C. シェパードソン氏講演会「美的感情と普遍性」

2011.02.24 原和之, └イベント, 柵瀨宏平, 精神分析と欲望のエステティクス

 2010年7月27日、ニューヨーク州立大学教授チャールズ・シェパードソン氏の講演会が開催された。

 「美的感情と普遍性:カントとナンシーにおける〈意味=感覚〉と共同体」と題された講演において氏は、カントとナンシーのテクストの読解から出発して、美的感情の伝達、諸芸術の複数性と相互照応といった問題について分析した。
 こうした作業を進めるにあたり、シェパードソン氏が主たる参照項としたのがカントの『判断力批判』とナンシーの『ミューズたち』である。今回の講演会において氏は、これらのテクストに密着し、そこに緻密な注釈を付けるという形で議論を進めた。ここでは氏が講演の後半で取り上げた『ミューズたち』の議論を紹介することにしよう。というのも、氏による分析の核心部分は、ナンシーのこの著作に大きく依拠しているように思われたからである。


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 『ミューズたち』の冒頭でナンシーは、なぜ単数の芸術ではなく、複数の芸術が存在するのかという問題を提起する。彼によれば、この問いを反駁し、そこから逃れるためには二つのやり方がある。すなわち、こうした複数性はそもそも所与のものであるとするやり方、そしてもう一つが、たとえ芸術が複数存在するとしても、その本質は唯一つであるとするやり方である。ナンシーは前者を技術的な芸術概念、後者を崇高な芸術概念と呼ぶが、いずれの概念によっても芸術の複数性を捨象することはできない。芸術はこうした二つの概念の緊張のうちにのみ存在するものだとナンシーは考えるのだ。


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 さらにナンシーは芸術という語それ自体に内在する複数性へと話を進める。語源学的な考察を通じて彼は、「l’art」(芸術=技術)という語の起源に「ポイエーシス」と「テクネー」という二つの概念があることを指摘する。技術という語の語源となったテクネーから由来するのが、技術・技芸としての芸術という概念である。こうしてナンシーは、なぜ「l’art」には芸術と技術・技芸という二つの意味があるのかと問うのである。


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 こうしてナンシーは、芸術(=技術・技芸)が孕む複数性という問題をさらに複数化し、錯綜させる。ヘーゲルはこうした複数性の起源を諸感覚の差異に求めたが、ナンシーはこうしたヘーゲル的な回答を退けている。というのも伝統的になされる五感という区分は、諸芸術間の差異には対応していないからである。


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 それでなぜ芸術は複数あり、そしてそうした複数性にもかかわらず、なぜ諸芸術は互いに呼応し合うのだろうか。この困難な問いに応じるための導きの糸となるのが、触覚という感覚である。コンディヤックにおいて顕著に見られるように、西欧の哲学的伝統において触覚は感覚一般のパラダイムとされてきたのだが、ナンシーはこの触覚を、自らが感覚していることを感覚することとして位置づける。反省的な感覚としての触覚は、他なる何ものかが存在することを感覚するとともに、他なる感覚帯が存在することをも感覚する。つまり触覚は、それが感覚する際、自らに触れると同時に、その境界において他なる諸感覚にも触れることになる。触覚に内在するこうした諸感覚の異質性、それこそが諸芸術の複数性と相互照応とを同時に可能にするのではないか、これが芸術の複数性という問題に対してナンシーが与えた回答なのである。


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 冒頭にも述べたように、今回の講演会でシェパードソン氏は「テクスト注釈」(explication de texte)という人文科学における伝統的な方法に忠実に従いながら講演を行った。氏の読解は大変精密であり、その注解は示唆に富むものであったが、その反面、分析対象となるテクストの議論と氏自身が提示しようとするテーゼとの差異が曖昧になるという側面があったことは多少残念であった。とはいえこの講演会が聴衆にとってカント、ナンシーのテクストを精読する絶好の機会となったことは確かである。今後シェパードソン氏はこうした読解作業を出発点として「美的感情と共同性」をめぐる分析をさらに発展させることだろうが、もう一度駒場でそうした議論を拝聴する機会が持てることを期待したい。

(文責:柵瀬宏平)

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