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【報告】『ユリイカ』2010年12月号「『鋼の錬金術師』完結記念特集」合評会 ーハガレンとマンガ評論の可能性ー

2011.02.04 早尾貴紀, 中尾麻伊香, UTCP

1月30日、『ユリイカ』2010年12月号「『鋼の錬金術師』完結記念特集」合評会を開催した。特集号の編集者、執筆者、さらにコメンテーターを迎え、ハガレンとマンガ評論の可能性を議論した。

まずは執筆者がそれぞれ、自身の論考と特集号についての意見を述べた。参加した執筆者と論考タイトルは以下のとおりである。
・星野太 「等価交換」のエコノミー
・入江哲朗 鋼の二つ名は伊達じゃない
・早尾貴紀 『鋼の錬金術師』から読み解く国家と民族
・中尾麻伊香 変容と破壊をめぐる想像力
・八代嘉美 パラケルススの「裔」として

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はじめに星野氏からマンガ評論とハガレンについての概説的な説明がなされた。ストーリーに破綻がないのがハガレンの特徴であり、それゆえナラティヴに基礎を置いた評論が難しいという指摘をした上で、作中では抑圧されていた貨幣の表象に着目して分析を行ったという論考の趣旨を語った。
入江氏は、ハガレンの物語がそつなく組み立てられているという星野氏の指摘を引き継ぎながら、この作品はマンガがつねに抱えてきた「人間とは何か」という問いを主題として扱っている点に注意を促した。そして自身の論考では、「言葉と物」の関係に対する人間の認識能力という視点から、ハガレンと普遍論争というテーマに着目したと説明した。

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早尾氏は、原稿の執筆締切が、UTCPのパレスチナ/イスラエル出張と重なり、主にエルサレムで原稿を執筆することになったという経緯を紹介し、その事情がハガレン読解および分析論考に色濃く反映した、という背景を明らかにした。
中尾は、荒川弘がイシュヴァール内乱を描くにあたり戦争体験者の話を聞いてまわったというエピソードに触れ、マンガの世界にあらわれる歴史の断片、繰り返される人間の葛藤や生を、変容と破壊への想像力という点から、20世紀前半の物理学史と重ねあわせて論じたと説明した。
八代氏は、生命科学をめぐる最新の知見から、キメラ的状況が現実のものとなりつつあり、新たな生命観を形成していかなければならないと述べ、アルはオートメイルの姿のままでもよかったはずであると、鎧の姿を許容する生命観を示せなかったことへの違和感が表明された。

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続いて、SF・文芸評論家の藤田直哉氏からコメントをいただいた。藤田氏はまず、ハガレンの論評が多岐に渡っており、主題論に偏っている点を指摘、そして主題論として論じられがちなハガレンという作品の特質について語った。例えば『AKIRA』と『のらくろ』、血のでる身体と血のでない身体が、ハガレンでは同居しているという指摘をした。さらに、ハガレンという作品においてはあらゆるものが隠喩になりすぎているとして、こうした作品がヒットする背景として、隠喩的思考というものがあるのではないかという指摘がなされた。また、後半でテクノロジーに依存したプロメテウス的な状況を示しているように読める北(ブリッグス)のエピソードにあれほどの描写が割かれたことの意味を考える必要がある、などといった問題提起がなされた。各執筆者の論考から特集号全体までを俯瞰したコメントは、後半のディスカッションに引き継がれた。

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ここでユリイカ編集部の明石陽介氏から、主題論に偏っていたのではないかという指摘に対して、新しい形のマンガ評論を試みるという編集の意図からあえて主題論的な頼み方をしたこと、ハガレンをプリズムとして批評の可能性を試したかったという説明がなされた。明石氏はまた、ハガレンが興味深いのは、等価交換の原則を描きながらも、荒川はそれを途中でくつがえしている点にあると述べた。

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後半のラウンドテーブルディスカッションでは、ハガレンという作品の孕むさまざまな問題が指摘された。それらは、作品の前半で期待させられ、後半で裏切られたという感想からくるものであった。たとえば、ハガレンにおいては等価交換から贈与へ、テクノロジーの問題から心の問題(鋼の腕から鋼の心)へと主題がすり替えられているように読める点。こうした変化は荒川の限界なのか、少年マンガの限界なのか、さらに作品の終わり方を「きれいにまとめる」ことの代償として多くの可能性が不問のまま刈り取られてしまったのではないか、といったことが議論された。
また八代氏からは、錬金術師の父によって飼い犬と合成されたニーナは何故殺されなければならなかったのかという問いがだされた。キメラを生かし続けることができなかったのは、荒川の(生命観の)限界だと主張した。一方で藤田氏からは、中央軍のもとにつくられたキメラは合成獣部隊として普通に登場しているが、その違いはどこから来るのかという指摘がなされた。それを受け早尾氏からは、キメラや鎧に対して与えられる「人間的生命」への特権的な共感が、最終回で「普通の国家」「普通の国民」へと収斂していっていることと通底しているのでは、という感想が出された。

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そこから、ハガレンにおいては、ギャグとシリアスのコードの住み分けが行われているが、ニーナの回はそれらがわけられずに同居していたことが気持ち悪さにつながっている、しかしその気持ち悪さこそ突き詰めるべきものなのではないかといった意見がだされた。入江氏は、一方で荒川弘はハガレン単行本巻末の4コママンガなどで二次創作を自ら積極的におこないながらも、他方で作者にはキャラクターを(最終的には)コントロールできるという自信がどこかにあるようにも感じられると指摘した。このことは、作品のなかに〈真っ当なもの〉と〈真っ当でないもの〉との対立がところどころ含まれながらも最後には前者が勝利するという物語の展開と重なると同時に、さきほどの「ギャグとシリアスの住み分け」の問題ともつながる。
最終的にはポストヒューマン像へのわれわれの期待と、それに対するハガレンという作品の特質があぶり出される形となった。今回の合評会により、参加者の関心が投影されることでハガレンが立体像となり、主題論と表現論がつながっていく、マンガ評論の可能性が見えたように思う。

(報告:中尾麻伊香)

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