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【報告】F. リゴッティ氏「哲学と日常生活」講演会

2011.02.01 村松真理子, 小林康夫, 時代と無意識

哲学が立ち上る場に回帰することは可能なのだろうか。その回帰の場から新たな思索と生を産み出すことはできるのだろうか。日常の反復の中に、バッハの音楽に幾度も戻り来るテーマのように、概念のヴァリエーションを私たちは認識することができるだろうか。

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リゴッティ氏は、その問いかけをひきうけて、大学という場所から外に出、哲学する市民(とでも呼びたくなるようなイタリアの聴衆)を前に、「哲学的演劇」と彼女の呼ぶ実験をはじめた。今回お招きして、駒場で実演していただいた様子は、大橋氏の報告にある通り。演劇的空間を作り出し、哲学の「ことば」が生まれる場を再現しながら、テクストのことばをたどって根源に立ち返ろうとするパフォーマンスは、テクスト自体や古典への魅力的ないざないでもあった。

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そのイヴェントの準備という意味合いも込め、3日ほど先立って開催された講演会のタイトルは、「哲学と日常生活」。
その二つのタームが矛盾ではないかという問いから出発、古代哲学からヴィトゲンシュタイン、現代哲学まで、哲学や思索の営為と表現が、いかに「生活」から生まれたかを、「語源」やメタファーや美術作品などの喚起するイメージを手がかりにたどり、改めて哲学の枠を問い直そうとするものだった。
「生」と「思索」の間に、哲学によって構築されている「価値」のヒエラルキーをいかに乗り越えるか。まずは言葉の源にさかのぼってみる。

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pensare(思索する)という動詞は、天秤やpesare(重さをはかる)という日常の行為に発し、私たちの省察riflessioneもまた、日常的な道具である鏡specchioに由来する。糸をつむぐことは、ことばをつむぎ、テクストを織ることに連なる。私たちがすべてを電子化しながら失いつつある「物」との接触や、日常の繰り返しという「生」の中に、いかに思索の源があるか、さらには現代の「生」の典型的ふりこ運動としての往復の移動(出勤、出張、移動etc)や、「生」の根源に関わる母性(=出産・子育)とその比喩をとりあげ、「生」のただ中に見いだされ、芸術とも言い換えられるような「哲学」と「創造」の地平について、語られた。
そこには、哲学の生まれる場に立ち返るとともに、日常生活の「物」や、繰り返される行為や運動の中に宿る「芸術」や思想を見いだすまなざしが必要とされる。
その二つの方向にそって、「生活」と「哲学」をめぐる思索を紡いできた思想家やテクストがたどられた。ヴィトゲンシュタイン、フロイト、スタンリー・カヴェル、リチャード・ローティ、アルド・ガルガーニ、パオロ・イエドロウスキー、アルンダティ・ロイ。

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「料理」「日常生活」「物」「往復運動」「母性」を通じて哲学の原点をたどるという、近年の一連の「開かれた哲学」の著作や講演活動でやってきた仕事に一区切りつけ、リゴッティ氏は改めて「政治哲学」に戻るところだとおっしゃりながら、駒場から去っていかれた。「物」ですら稀薄になった21世紀の「生」を生きる私たちに、彼女はどのように概念そのものについて再び語ろうとしているのだろうか。北イタリア・ドイツ・スイスを結ぶ三角形の、思索と教育と生活の場に帰られるリゴッティ先生にその期待をお伝えしつつ、見送った。

(村松真理子)

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