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【報告】フランチェスカ・リゴッティ氏ワークショップ『物のアニマ』

2011.01.27 村松真理子, 小林康夫, 大橋完太郎, 時代と無意識

2011年1月14日、スイス・ルガーノ大学のフランンチェスカ・リゴッティ教授によるワークショップ『物のアニマ』が学際交流ホールにて行われた。哲学的演劇とも言える今回の試みはイタリアではパフォーマンスとして行われているものであり、実際イタリアの各都市では多くの市民を巻き込んで、大々的に開催されているらしい。日本ではほとんど初めてのように思われるこの試みの醍醐味を簡単に紹介したい。

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リゴッティ氏は舞台の上を自分の小さな部屋に見立て、時計や鍋やベッド、コンロや傘など、日常的なさまざまな物を配置し、それを次々と手にしつつ、哲学的なモノローグを語り続ける。当日の舞台から引用してみよう。彼女はレンズ豆を鍋で煮込みながら、次のような台詞を発する。「鍋の哲学」についてだ。

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「...ひとりのギリシャの哲学者は、鍋をもっていた。そして、鍋について思索を捧げることにした。その哲学者とはプラトンのことだ。美とは何かの例をあげるため、彼の対話の一つで、鍋を取りあげる。(中略)そして、ソクラテスは次のようにヒッピアスに向かって言うのだ。『親愛なる友よ、美しい鍋ではないか(kalh cutra)。これは美しい物ではないか?』ヒッピアスはまず憤慨する。鍋について話すということは、卑しい言葉(faula onomata)を使うということだから...」

「美について」と副題が施されているプラトンの対話篇『ヒッピアス(大)』のきわめて有名なシーンだ。プラトンの読者はおそらく、美についての議論を期待していたのに土鍋が話題にされたとき、ある種の脱力感を(ヒッピアスのように)おぼえたことだろう。ソクラテスの人を食ったようなこの態度は、実際に鍋を目の前にしてこの台詞が発せられたとき、ますますはっきりと理解されることになる。哲学は対話術であり、あるいは弁論術であり、あるいはソフィスト的なものに対する反=弁論術だったかもしれない。けれども、プラトンの著作が示しているように、それは、ひとつの起源において「演劇」でもあったということを、これほどはっきりと示してくれる機会もほかにない。

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 リゴッティ氏の公演は、こうしたトピックが次々と連なって構成されている。言葉と物を巡る思索は、傘と真理を巡るモノローグや石けんとpropre(フランス語で「固有性」と「清潔」を意味する)なものの関連を探る態度の中で生き生きと表現される。哲学者は観念を構成する「思考機械」ではなく、日常の生の現場から触発されつつ思考を紡いだ存在であるということをリゴッティ氏の実演ははっきりと示してくれた。ギリシャから続く哲学の伝統が今でも根付いており、それがなおも生きているということを体験することができるこの機会は、ひょっとしたら哲学教育を行う最良のメソッドのひとつなのかもしれない。そして、それはおそらく、日本の哲学の文脈においても、能の舞を参照しながら思いを巡らした坂部恵の思索などと共鳴するところも多くあるだろう。「哲学を開く」ための手段としての演劇的なこの実践は、日本においても試みられる価値が十分にあるに違いない。

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[質疑応答の一幕にて。この後、枕を手に「枕=魂倉(たまくら)」から魂の存在を指示する小林流「物のアニマ」の解釈と、枕の語源のギリシャ語に時間tempoを読み込むリゴッティさんとの間の応酬(?)がありました。]

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