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【UTCP Juventus】大池惣太郎

2010.09.30 大池惣太郎, UTCP Juventus

【UTCP Juventus】は、UTCP若手研究者の研究プロフィールを連載するシリーズです。ひとりひとりが各自の研究テーマ、いままでの仕事、今後の展開などを自由に綴っていきます。2010年度の第25回はRA研究員の大池惣太郎(フランス文学、思想)が担当します。

 私は修士課程からフランスの作家ジョルジュ・バタイユ(1897-1962)の作品と思想を対象として、文学、哲学、社会学などの領域にまたがった研究を行っています。現在はとくに、人間と「否定性」の関係をめぐるバタイユの歴史的な考察に関心を持っています。

 バタイユのライフワークの一つに、人間の社会に多様な形で組み込まれた「否定的なもの」の歴史を俯瞰する、独自の人類史の構想が挙げられます。バタイユは、エロティシズムやサクリファイス、消費の形態や至高権力の表象といった主題を取りあげ、それがアルカイックな共同体から、国家の誕生、帝国主義的な軍事拡張、資本主義、社会主義の体制へと至る歴史の様々な段階において、どのような形で人間の営みの中に置かれてきたかを歴史資料とともに考察しました。ヘーゲル哲学を自家薬籠中のものとして展開されるこの「人間史」は、「人間」が「否定的なもの」によって突き動かされながら、それを次第に自分の中に還元していく過程として分析されます。「人間」は、その営みを外から脅かす暴力、狂気、性、無意味、物質性、死といった諸力のうちに「否定性」を捉え、それを自分の意味的、道徳的、美的な認識の秩序のうちに段階的に回収していくのです。
 バタイユが分析したこれらの多様な「否定性」の諸形象は、しばしば「侵犯」の契機として読解されます。それは確かに、安定した主体の定立性、またそれを取り巻く世界の意味的、道徳的、美学的秩序の自明性を〈外〉から揺るがし解体する諸力としての意味を持っています。バタイユにおいてまず注目されたのは、そうした諸力に自らを曝し、世界を自明の意味と「物」の秩序として認識する主体の位相を根底から問い直そうとする、「侵犯」の思想家としての側面でした。
 しかし「侵犯」の図式は、既存の意味的、道徳的、美的な認識の輪郭を際立たせつつ、それを変容・拡大・活性化していくことと対になっています。「否定性」の契機を〈外〉に探すことと、それによって自己をさらに確固とし、より認識として肥大させようとする企図はいわば共犯関係にあります。私は、バタイユ思想の重要な点が、「侵犯」の経験を称揚することではなく、むしろ「侵犯」の構造それ自体を観取すること、そしてそれにより「否定性」を〈外〉に見出そうとする「人間」の努力があらかじめ転倒したものであることを描き出すことにあると考えています。自閉した自己に活を入れるために〈外〉へと向かっていくのではなく、反対に「否定性」を〈外〉に定立しようとする「人間」の一方向的な意識を「逆向き」に辿り直し、「人間」と「否定性」とが同時に発生してくるモメントそれ自体を認識すること、バタイユは戦後の著作の中でそれをヘーゲル=コジェ―ヴ的な「歴史の終焉」後の「人間」の課題であると述べています。
 「否定性」の歴史をめぐるバタイユの考察は、いわばそうした構造を浮き彫りにすることに向けられています。それは現在の世界において「否定性」がどのような形で配置され、またそれが今後どのような形態をとっていくのかを考察する上でも、重要な示唆を与えてくれるものではないでしょうか。私はこうした観点からバタイユ思想に関心を持ち、研究を進めています。彼の思想から〈外〉へと「否定性」を探す「人間」の営みを総体として捉え返す視点を引き出すことが、バタイユ研究の目的です。そのための具体的な課題として、以下のようなテーマに取り組んでいます。

(1)「戦争」を通して見た「人間」の位相
 スペイン戦争、第二次世界大戦、冷戦を同時代に経験したバタイユは、「戦争」について多くの記述を残しており、それを人類の歴史に多様な形で組み込まれている外在化された「否定性」の一形態として捉えています。その理論はしばしば、ドゥ・メーストル、プルードン、ソレル、ユンガーといった、戦争を決して単に忌避されるべき否定的暴力とは見なさず、その破壊の創造的な側面や連帯を生み出す凝集力に注意を向けた思想家の系列に位置づけられていますが、「私自身が戦争である」という1939年の言葉に要約されるように、「戦争」をめぐるバタイユの特徴的な観点は、それを単に人間が置かれる外的世界の暴力と捉えるのではなく、自己を縁取る「内」と「外」の関係が複雑に交錯するような位相において問題化するところにあります。
 この観点から私が注目しているのが、第二次世界大戦中に執筆された『無神学大全』におけるいわゆる「内的体験」の探求と、そのとき彼を取り巻いていた全体的に暴力化した世界との関係です。この作品でバタイユは自分の探求と戦争状態にある世界が密接な関係があることを示唆しつつも、直接対象として「戦争」について論じることを避けています。私はそこに「戦争」と「人間」の関係を捉える彼の特異な視点が見出されると考え、現在、『無神学大全』とその元となった日記や手記等のクロノロジックな読解から戦時中のバタイユの実際の歩みを再構成しつつ、バタイユがそこに巻き込まれている世界に固有の構造を観察し記述することを試みています。

(2)「消費」と〈悪〉の問題
 「戦争」の主題と並行して進めているのが、バタイユの「消費」の理論から現代の経済のあり方を捉え返すことです。バタイユはモースをはじめとする民族学・社会学の仕事から大きな影響を受け、「消費」が持つ祝祭としての意義について考察しました。その根底には、個体の利害関心のうちからは理解不可能な、根本的に非功利的な原理に対する関心があります。人間の活動が必ず功利性に回収されてしまうと考えたバタイユは、「純粋な贈与」としての「消費」を行う人間の力能を疑問視します。興味深いのは、それにもかかわらずバタイユが「マーシャル・プラン」などの国際的な経済政策に対し、人間の意図や思惑を越えた次元における「贈与」としての価値を認めていたことです。単なる祝祭的な消費の称揚ではなく、「贈与」をめぐる実践的で政治的な問いの観点からバタイユの「消費」理論を読解していくことが、今後必要なのではないかと思います。そのために重要なのは、「消費」という現象自体が持つ意義を考察することではなく、それが「人間」の活動の中で結局のところどのようなエコノミーを形成しているのか理解する新たな視点の提示です。私はその点について、社会学者ジャン・ボードリヤールの仕事が、バタイユの思想とある深い親近性を持っていると考え、注目しています。今年度の表象文化論学会で報告したその成果の一部を、現在論文化しているところです。

【Graduate Student Conference】
最後になりましたが、岩崎さんの紹介にもありましたように、現在、UTCP若手研究員を主体に、「境界」のテーマをめぐるGraduate Student Conference(学生カンファレンス)を企画しています。「境界」という緊張をはらんだトポスが、人文の様々な研究領域で今どのように見出されているかを報告し合い、それを通じて異質なものが触れあうダイナミクスのアクチュアルな現場を探る企画です。発表者は国内外から募集します。間もなく、UTCPサイトに応募要項(Call for Papers)が公開される予定ですので、国内外の若手研究者との交流を深める機会としてもぜひご活用いただければ幸いです。多くの応募をお待ちしております。

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