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【UTCP juventus】大橋完太郎

2010.08.03 大橋完太郎, UTCP Juventus

【UTCP Juventus】は、UTCP若手研究者の研究プロフィールを連載するシリーズです。ひとりひとりが各自の研究テーマ、いままでの仕事、今後の展開などを自由に綴っていきます。初回は特任講師の大橋完太郎(フランス近代思想)が担当します。

UTCPにて特任講師を務めさせていただいております大橋完太郎です。フランスを中心とした17〜18世紀の思想に焦点を当てて読解や解釈を続けてきました。哲学、というか思想の勉強を始めた根底にあるのは「人間とは何か」というある意味素朴で――ある意味欲張りな――問いかけでした。そうした関心から、モンテーニュやデカルトを読み始めたのですが、彼らの懐疑主義的あるいは合理主義的な思考とは、この問いかけへの答を、ひとつの「私」という観念に立脚することによって解こうとした試みだったのではないでしょうか。今にして思えば、「近代」を準備したもののひとつとして、このような根源的かつ素朴な独我論が存在していたことに疑う余地がないような気がします。
 とまれ、そんな思考に惹かれた結果、フランスの近代哲学を中心に研究することになりました。東京大学の大学院に入学してからは18世紀の啓蒙思想家ドニ・ディドロを対象にしました。彼の思考に関する博士論文を2009年3月に東京大学の総合文化研究科に提出し、同年7月に博士号の学位を(めでたく)授与され今日に至る、という次第です。
 ディドロに関する専門的な知見、および同時代「啓蒙」の状況に関するそれは、博士論文を執筆していく過程でいろいろと得ることができましたが、自分の根本の疑問は、やはり冒頭に掲げた「人間とは何か」というものにあったと思います。さまざまな問いかけや考察を重ねているうちに、最近では、自分はこの問いを「人間とは何をしてきたのか」「人間とは自らをどのように規定してきたのか」という過去形(事実確認的)の問いと、「人間とは何をなし得る存在なのか」「わたしが人間であるとして、何をすればよいのか」という可能的未来的(行為遂行的)な問いとの二つの方向性にわけて考えるようになってきたようなのです。細かく見てみるならば、自分が行ってきたこと、現在進行中のこと、将来の計画などは、思考されてきた時間や密度の差こそあれ、いくつかのテーマのもとに集約して考えることができますが、今回はそのうちの一つをクローズアップして紹介します。

「啓蒙」の人間学:ディドロと怪物=奇形の存在論

 「怪物=奇形 monstre」というテーマはディドロの思想を追いかけることに決めたときに最初に設定したものでした。端的に言えばそれは、ある仕方で人間以外のものと見なされた何ものかのことです。人間とは何か、を問うことは、人間以外は何であるか、を問うことでもあるのです。デカルトは「人間とは何か」という問いに対して、理性的動物という答えは相応しくない、と述べました。デカルトは精神的実体を直接的に思考するため、人間=動物+理性という還元を(ひとまずは)避けたのです。「怪物=奇形」を問うことは、デカルトと逆向きに考えてみることです。それは理性と動物性との分離を回避しながら、動物と人間とに共通する身体(=物体)の位相の拡張・変形可能性を問うことです。
 もともと「怪物=奇形monstre」とはmonstrareというラテン語、すなわちなにかを「示す de-monstrate」ことに由来しています。怪物とは人間に計り知れない秩序の存在を自らの存在によって示すような存在だったのです。アリストテレスの自然学、あるいはプリニウスの博物誌を端緒にもつこうした怪物の観念は、アウグスティヌスの解釈を経て、キリスト教的世界にも根付いていきます。アリストテレスの発生理論において「親に似ていない子供」として規定されていた怪物は、――少し複雑な経緯はあるのですが――アウグスティヌスによって、世界それ自体の多様性を示すもの、すなわち「隠れたるもの Occultus」の現れであり同時に「驚嘆すべきもの Mirabilia」であるものとして捉えられます。形態学的関心の対象であった怪物=奇形が、世界創造の奇跡とその珍奇さを証左する博物学的関心の対象になっていったと言えるでしょう。

Juventus_monster.jpg
[1511年イタリアのラヴェンナで目撃された当時の「世界で一番有名な怪物」。]

 日本語では一語で訳しにくい意味がある monstre という語は、単なる奇形的人間だけではなく、巨大な岩や彗星などの天変地異など、人間の尺度を超えたあらゆるものを示していました。ところが近代の開始とともに――正確には16世紀半ば頃から――「奇形」という意味合いが強調されてきます。そこにはルネサンスにかけて大いに発展してきた医学の影響がありました。奇形は驚異の対象から、理性の対象となったのです。当時奇形に注目した代表的な人物として、フランスのルネサンス期の医師、アンブロワーズ・パレがあげられます。パレは怪物=奇形が生じる原因を、神の裁きや怒りといったものには帰せず、むしろ種子と胚との関係を対象にした病因論的な視点を導入して分析しました。今日ではこのパレの視点は、形態学や解剖学の成果を用いて近代奇形学を確立したイジドール・ジョフロワ・サン–チレールの考え方と対応するきわめて先駆的な発想と見なされています。奇形の発生は先天的な問題によるのかあるいは後天的な原因によるのかという、胚の前成説と後成説とをめぐる論争は、ある種パレから始まるものであり、これによって怪物=奇形は神学的な問題から生物学的な問題へと姿を変えたのです。近代とはこの意味で、怪物=奇形の脱神話化の時代だとも言えるでしょう。
 このように、怪物=奇形とは、ギリシャ以来の形而上学、博物論的な文化誌、神学的な世界観、実証的な医学、近代的な人間像などが入り交じって形成された、きわめて雑多な、文字通りの「キマイラ的=怪物的」な概念です。人間を歪めたもの、人間を超えたもの、人間の外部にあるものを「怪物」と名付ける伝統が西欧世界にあったとするならば、たとえば近代において発生した「崇高」の概念や「無意識」の概念といったものも、この系譜のうちに参入させることができるかも知れません。(個人的には、近代化とは「怪物的なものの内面化の歴史」だと思っています。)


 『百科全書』の編纂者であり、代表的な啓蒙の思想家として知られるディドロがこの「怪物」という形象に自己の思想を仮託していたということ自体が、彼の「啓蒙」のプロジェクトの性質をよく表わしています。ディドロは、あらゆる存在の存在論的基盤に「怪物性 monstruosité」を見いだし、それによって個体間の境界を曖昧化し、新しい共同性を打ち立てる原理にしようとしました。ディドロにとって怪物=奇形とは、存在するものに固有の可塑性を示唆する存在なのです。この可塑性を擁護することのうちに、人間にとっての変身=発展する可能性もあるのです。いわば、進歩(これはのちのモダニズムの進歩概念ほど単線的なものではありません)を可能にするものは、この怪物性にほかなりません。そこには、プラトン=カント的なイデア的・形式主義ではなく、アリストテレス=ライプニッツ的な力の思想があります。万物の形態は力の発露であり、アプリオリな形式など存在しないというディドロのこの力動的な思考は、実際いかなる定式化をも体系的にまとうことなく、絵画批評や劇作、哲学的対話篇や小説など、エクリチュールのあらゆる次元に浸透し、ジャンル横断的な知性の活動を、その底部から活性化しているのです(ある意味では気まぐれともいえるこの性質について、自分は風見鶏みたいなものだ、とディドロ自身も述べています)。ヘーゲル、そうしてその流れを汲むマルクス・エンゲルスは、このような特徴を持つディドロの思考を「本来の哲学の外」にあると規定してしまいました。どうやらディドロは「文学者」らしい、そういうことにされてしまった。けれども少なくとも哲学的な観点から見ても、ディドロの思考に一定のアクチュアリティがあるのは確かです。

Juventus_Diderot.jpg
[ヴァン・ルーによるディドロの肖像画。1776年のサロンに出展されました。ディドロはこれを見て自分に似ていないと怒るのですが、「自分は画家を欺く仮面を持っているのだ。」と言って納得します。融通無碍も怪物性の現れということです。]

 ディドロの思考の意義とは、独我論的伝統の基底に唯物論的なポテンツィアを読み込むことです。この作業を通じて、観念論的で孤独な「私」を、他者との共生へと開くことができるのではないかと僕は考えます。マルクス・エンゲルスは独我論的な哲学を形而上学と呼び、それに対置すべく歴史的唯物論と科学的弁証法を提唱しました。とはいえ僕自身は、自他の根源的な対立とその根源的対立を超-根源的に止揚する弁証法の機能を前提とする思考に全面の信頼を置くことができません。(対立するものを調停する手段として合目的性が措定されたときに、きわめて単純化された仕方での統一的権力=暴力が生み出される、という図式のくり返しに、まだ何か希望を見いだすことができるのでしょうか?)その意味で僕は思考の未来を弁証法的発展の内にではなく、横断的な可塑性の内に見ています。「怪物」概念の現代的方向付けはおそらく「身体」あるいは「身体性」といったものを原資として展開されるべきなのでしょう。「怪物」という概念を精査することで、「身体」をベースにしたサイボーグ技術やプロテーズなどの技術倫理の問題をより広い射程で考えることができるのではないか。また、「非人間」「ホモ・サケル」あるいは「動物に生成変化すること」などを鍵概念として持つフランス現代思想をより広い射程で理解することができるのではないか。「怪物=奇形」の研究には、そういった今日的な可能性もあるのではないでしょうか。(実際、何人かの海外の若手の研究者と、このテーマを通じてネットワークができつつあります。遠からんうちにみなさまの前でお披露目する機会を目指して、精進いたします。)

実際は僕の研究テーマはディドロ同様多岐にわたっていて、他にもご紹介したいトピックはあるのですが、今回はこれにて失礼させていただきます。

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