【報告】UTCPレクチャー「行為者性の現象学」
UTCPでは所属若手研究者による講演会シリーズを開催しています。題して「UTCP研究員による研究発表+議論シリーズ」です。2010年7月1日の第3回目は中期教育プログラム「科学技術と社会」に所属している池田喬さんに研究発表をお願いしました。タイトルは「行為者性の現象学」です。
以下、池田さんによる発表のまとめです。
私は、M.ハイデガーの哲学を中心とする二〇世紀の古典現象学を専門領域としてこれまで研究してきました。今後はそれを、最近「行為者性の現象学(Phenomenology of Agency)」と呼ばれている行為論の新たな問題領域の中で再考したいと思っています。この発表ではその見通しを提示することを試みました。
「行為者性の現象学」とは「私たちは自分が行為者であることをどのように知っているのか」をめぐる自己知の探求です。ただし、行為開始前の熟慮の場面でも事後的な行為の反省の場面でもなく、まさに行為の進行中の自己の「気づき」に関心をもちます。行為が円滑に進行している以上、意識は透明であるため、この「気づき」の解明に内観的な手法はあまり役に立ちません。
そこでフッサール、ハイデガー、メルロー=ポンティといった古典現象学者が共通して用いた「私はできる」という概念が効いてくることを論じました。フッサールやメルロー=ポンティにおける「私はできる」とは身体的な自己統御能力への気づきを表す術語ですが、重要なのはそこで運動能力が、典型的には「ああ動けばこう現れる」という運動感覚的理解に求められていることです。行為者の自己統御能力は、意志のような内的状態の形成ではなく、環境内事物と行為者との間の調整の内に構成されているのです。この能力知は、自らの行為が世界へ及ぼす影響についての(広い意味での)因果性を含んでおり、自らが行為の「作者」であること(行為者であること)についての非明示的な理解を成すものと考えられます。
また、ハイデガーは、道具との交渉能力としての「私はできる」の獲得によって世界との親密な関係を形成する中に、実存的な自己理解が含まれていることを示そうとしました。例えば、黒板にチョークで字を書き付けたり、台所で料理をしたりする能力にとって、教師であることや母親であることなど、(文化依存的な)自己理解は構成的に働くと考えられます。とは言えもちろん、それらの行為の最中に実存的な理解内容を「意識」しているということではありません。けれど、「不安」において、自己理解が疑わしくなると、これまで分かりきっていたはずの道具の意味理解や、ごく単純な行為の遂行さえ難しくなることから、通常は行為が遂行されている以上、「実存的」と呼ばれる自己理解が保持されていたという論法がハイデガーには見いだせます。道具との交渉能力の分節化としての自己理解は、意識化を必要としない程に通常は自明で安定した仕方で気づかれているのです。
時間の制約もあり、これらの論点の全てを丁寧に跡づけることは今回の発表ではできませんでした。けれども、私は、自分の研究領域が「ハイデガー哲学、現象学、行為の哲学、倫理学」であるのはなぜか、なぜこれらが私の思考の中では一体化しているのか、それを示唆できただけでもまずは成功と考えています。また、会場からは特にハイデガーの論点について疑念が多く表明されました。こうしたことはハイデガー専門家の集まりだと起こりにくいように思います。私としてはハイデガーの何をもっと説得力ある議論として今後提示していくべきかがはっきりしました。今後につなげていきます。
池田喬(PD研究員)