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【報告】「近代東アジアのエクリチュールと思考」第7回セミナー

2010.07.31 └セミナー, 齋藤希史, 裴寛紋, 近代東アジアのエクリチュールと思考

第7回目のセミナーは山本嘉孝さん(比較・修士課程)による発表「ピカドンと夢――玉響の記憶――」と、森田智幸さん(教育学・博士課程)によるコメントを中心に行われました(発表5月28日、討論6月18日).

使用したテキスト
【テキストⅠ】湯浅博雄「証言・ブランショ・デリダ」(湯浅博雄監訳『滞留』未来社、2000)
【テキストⅡ】兼山極作「朝霧らふ巷被ひし閃はたゞたまゆらの夢にも似たる」(『中国文化』原子爆弾特集号・創刊号、1949所収)

◆発表の部(5月28日)では、デリダの提示する証言行為の「普遍性」と「代替不可能性」という二面性(テキストⅠ)を確認しながら、被爆証言に見られる「夢」の表象に着目し、兼山極の短歌の事例(テキストⅡ)が「信用できる証言」として機能していることが主張された。具体的には、ピカドン言説における即物性と通俗性に対して、そこには非即物性と神秘性があることを指摘した上で、光と音が交錯する「ピカドン」と「玉響」との表現としての類似性に注目する。また、『万葉集』の本歌取りの手法は証言を物語化する一つのレトリックであったとする。このように被爆体験を夢に喩えたり、古典文学を利用したりすることが、実証できない現実体験をより現実化し得る方法ではなかったかという問題提起である。

◆討論の部(6月18日)では、従来の心理学研究における「夢」の分析や文学研究における「プロの作家」という限定などに対し、本論考が双方に批判的な立場として、証言を扱う新しい方法論である点に興味を示した。その上で、論旨の展開に最も重要な軸となる「信用できる」という表現自体が明確でない点をはじめ、いくつかの概念の定義に揺れがある点を指摘した。同様に、「夢」を媒介項として「ピカドン」と「玉響」とをつなげる論理の不十分さ、被爆証言と和歌・漢詩などを唐突に比較することの違和感などを問題視した。
発表者は、用語の問題については既存の概念を懐疑的に捉えたい意図であったと応答し、そもそも信用できない証言のもつ矛盾を見据えたときに、事実確認では終わらない証言があること、しかもそれらの方がむしろ「生きた証言」=「信用できる証言」であるという論旨を再確認した。そして補足として、21世紀東アジアにおける「歴史の歴史化」の問題をも提示した。

さらに,その他の参加者を交えて,分析の対象がとりわけ「被害証言」である点が議論された。すなわち、事実・実体としての歴史を否定するあまり、被害そのものの事実性や、その背後のある政治性を留保してしまう危険性はないか,加害/被害といった二項対立的な区別によって排除されるものを救うために、本発表の視点は有効な方法であるか否かという論点である.
以上はジャンルとしての文学や歴史ではなく、あくまで実践・行為としての歴史を語る問題であり、証言の難解さをまず自覚しなければならないという意味では、問題意識の共有ができた。

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