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【報告】「欲望と創造性 ラカン、ウィニコットと創造性の女性的起源」パトリック・ギヨマール氏講演会

2010.07.26 原和之, 藤岡俊博, 精神分析と欲望のエステティクス

7月2日(金)の講演会「アンティゴネの肯定 純粋欲望、差異の欲望、精神分析家の欲望」、7月3日(土)の臨床セミナーに引き続き、パトリック・ギヨマール氏(パリ第7大学臨床人間学部教授)の講演会「欲望と創造性 ラカン、ウィニコットと創造性の女性的起源」が7月5日(月)に東京大学駒場キャンパスにて開催された。

 梅雨特有の重苦しい空気、また夕方から突如降り始めた豪雨にもかかわらず、大勢の来場者がギヨマール氏の連続講演会の締めくくりとなる今回の講演に熱心に耳を傾けていた。

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 講演に先立ち、まずギヨマール氏から本講演についての簡単な趣旨説明があった。すなわちこの講演が、いかにしてジャック・ラカンと距離を取るか、いかにしてラカン「以後」の精神分析を構想するか、といった問いを念頭に置いて準備されたものである、というものだ。このことをギヨマール氏は、理論的観点からというよりはむしろ臨床的観点から、有名な「糸巻き遊び」の例を挙げて説明された。フロイトが自身の孫の観察に基づいて「快感原則の彼岸」のなかで提示した「糸巻き遊び」(Fort/Da)を、ラカンは象徴界への参入の契機として非常に重視していたが、この遊びを行う幼児がすでにある程度の年齢に到達していることを考えれば(フロイトの孫は1歳半だった)、そもそも「糸巻き遊び」はそれに先立つもろもろの経験、とりわけ母親との関係を前提としているはずである。いったい、「糸巻き遊び」が象徴化として機能するためにはなにが必要なのだろうか。ギヨマール氏はこの点に関して近年精神分析の議論の中で大きな進展があったことを指摘しつつ、この問いへの回答の一つの手がかりを、イギリスの小児科医・精神分析家ドナルド・ウィニコット(1896-1971)における「創造性créativité」の概念に求める。この前提に立って、本講演では、ラカンとウィニコットを分かつさまざまな隔たりが、基本的にはウィニコットに寄り添う仕方で明らかにされていった。

 ウィニコットの言う創造性とは、生き生きとした「実存している感覚」を指すもので、さまざまな苦痛や外傷のあとでも「生が生きられるに値する」という感覚を与えてくれるものである。「自発性」とも言い換えられる創造性は、その反対概念である「服従」とともに、個人の「真の自己self」と「偽りの自己」の分割の元となる概念であると言える。興味深いことに、ラカンもまた「生が生きられるに値するようにするもの」という表現を用いているが、ラカンの場合、それは「欲望désir」であると言われている。

 どちらも、生を生きられるに値するようにするものであると言われるラカンの欲望とウィニコットの創造性――しかし、ウィニコットの創造性が「純粋な女性的要素」、すなわち「ほどよい母親」との絆に由来していることが指摘される過程で、両者の相違が単に用語のレベルに留まらないものであることが明らかにされる。ウィニコットは、〈あること〉(being)と〈すること〉(doing)の区別に基づいて、前者を子どもと母親との原初的な同一化を可能にする「基盤(base)」と見なしている。これは力動的で破壊的な〈すること〉という「男性的要素」と鋭く対立する。連続性の、紐帯の、生の思想家ウィニコットと、不連続性の、断絶の、無(ないし死)の思想家ラカンとの相違は、まったく異なる二つの原理のあいだの絶対的な差異を示しているのである。

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 ギヨマール氏はもう一つの印象深い例を挙げることで、両者の隔たりをさらに際立たせていく。ラカンはセミネール『精神分析の倫理』のなかで、フロイトが語る「隣人Nebenmensch」に関するコンプレクスを解釈しつつ、母親は〈もの〉(la Chose/das Ding)の位置を占めると述べている。しかしラカンにとって、〈もの〉は主体の絶対的な〈他者〉であるために、この他者性からはあまりにも性急に人格的な次元が取り除かれ、その代わりに「無」や「穴」といった絶対的な他者性の形象が置かれることになる。発話(パロール)の創造的側面を強調するときであっても、ラカンはあくまでも創造を「無からの」創造としてしか考えていない。ラカンは1970年には、この空虚以外には隣人は存在しない、とまで言うに至っている。「隣人はいない」というこの言明から出発して、ラカンの経歴を――つまりは彼の孤独を――理解することもできるだろう。

 ラカンとウィニコットのあいだの二律背反的な対立のあいだで、ギヨマール氏はどちらかを選択する必要はない、そのような選択に意味はないと述べ、これを本講演の結論としている。講演に引き続いて十分な時間を取って行われた質疑応答では、当然ながら両者の相違と、それに対する態度決定の問題がさまざまな角度から取り上げられた。具体的には、ハイデガーを経由したラカンの芸術作品の議論は現前と不在の対立を乗り越える点でウィニコットの創造性と近い側面も持つのではないか、ウィニコットにおける「真の自己」の創造性はむしろ「偽りの自己」に基づいているのではないか、臨床においてはラカンとウィニコットのあいだで選択をしなければならない局面があるのではないか、フェレンツィにおける「よるべなさ」の問題はどうか、など、理論的な側面から臨床の実地的な場面に至るまでの幅広い質問がなされ、そのそれぞれに対してギヨマール氏から真摯な応答があった。なかでも、今回の講演の趣旨であったラカンとの距離化の問題に関して、たえず自らを超越していくものであったラカンの思想の限界をはっきりと縁取ることこそが、ラカンを継承し、相続していくことの条件であるという発言が印象的だった。

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 最後に、今回のギヨマール氏の連続講演会に、学外からの大勢の来場者、とりわけ多くの精神分析家、精神科医の先生方のご参加をいただいたことを特に記しておきたい。理論的な作業に加えて「臨床家との接点を確保する」というUTCP中期教育プログラム「精神分析と欲望のエステティクス」が掲げる大きな目標の一つが、まさに双方の協働を体現しているギヨマール氏の来日とともにその端緒についたことは、本プログラムの今後の活動にとって間違いなく大きな意味を持つことになると思われる。(文責 藤岡俊博)

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