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【報告】ワークショップ「フランス現代思想の地平」

2010.05.03 小林康夫, 星野太, 西山雄二, 大橋完太郎

2010年3月26日、ワークショップ「フランス現代思想の地平」が実施された(司会:西山雄二)。

星野太(東京大学博士課程)
「放物線状の超越――ミシェル・ドゥギーによる偽ロンギノス読解」

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星野は、現代を代表するフランスの詩人・哲学者であるミシェル・ドゥギーについての発表を行った。ドゥギーは、1980年代に偽ロンギノスの『崇高論』を論じたテクスト「大‐言」(1984)を発表する。ドゥギーのこのテクストは、当時のフランスにおける崇高論の流行の中でも極めて特異な位置を占めるものであったが、それ以上に当時のドゥギー自身の思索を理解する上でとりわけ重要なものである。本発表で提示したのは、ドゥギーが『崇高論』から引き出してくるギリシア語の「崇高 hupsos 」概念が、「誇張 hyperbole 」および「贈与交換 anti-dosis 」という主題と密接に結びついているという事実である。ドゥギーの崇高論は、絶えざる「贈与」によって思考が「誇張」的に高みへと至るというヴィジョンに基づいている。そしてこれらの主題は、同じ80年代に発表された『横臥像』、『与えあう』という詩集の内容とも呼応しあう重要な位置を占めている。最終的に本発表では、以上のようなドゥギーの崇高論を、彼が近年発表したテクストの言葉を用いつつ「放物線状の(=寓意的な)超越 transcendance parabolique 」として定式化した。

Maria Fernanda Negrete(コーネル大学)
「『私たちはいま、ガラス越しに、明瞭に、見えているのだから』――クラリッセ・リスペクトール、ロニ・ホーン、エレーヌ・シクスーによる美的経験」

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Maria Fernanda Negreteは、ブラジル人作家クラリッセ・リスペクトールの作品から出発し、アメリカ出身の現代美術家であるロニ・ホーン、そしてフランスの哲学者であるエレーヌ・シクスーによるその解釈/変奏について横断的な論を展開した。ホーンは、2004年にリスペクトールのテクストを用いた作品(Rings of Lispector)を発表する。そしてシクスーはホーンの作品集に寄せた「見たことのないものを見せる」という論考の中で、リスペクトールおよびホーンの作品経験について論じている。本発表のタイトルである「私たちはいま、ガラス越しに、明瞭に、見えているのだから」という一文は、リスペクトールの『生命の水 Agua Viva 』という本からの引用であるが、この表現は、美学の創始者であるバウムガルテンが美学の尺度のひとつとして採用した(デカルト的な)「明晰かつ判明なもの」からは逸脱するものである。むしろNegreteは、リスペクトール/ホーンの作品経験の本質が、まったく新しい「今」を産出すること、そしてそのような「今」「出来事」を存在せしめる「君 tu 」を産出することにあるとし、発表を締めくくった。
(以上、文責:星野 太)

午後の前半セッションは、怪物性と変貌性とをめぐる二つの発表がなされた。両者は共に弁証法、あるいは否定性の存在論を乗り越えようとする新しい存在論の試みであり、いかなる示し合わせもなく両者が出会い得たというまさにその点に、時代の要請、あるいは必然を読み込んでしまうのは、いささか穿ち過ぎであろうか。

大橋完太郎(UTCP)の発表「人間的なものと怪物的なもの――ディドロの唯物論的一元論における道徳の問題」は、フランス現代思想と18世紀啓蒙思想の交点を探求するものであり、現代哲学を経由することで、ディドロの思想の持つアクチュアルな意味を浮上させようという試みであった。「怪物」という規格-外の存在が持つ意味合いがそこでは問題となる。

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大橋はまず、フランス現代思想において重要視されていた怪物性の二つの概念、すなわちフーコーによる「異常者 anormal 」と、ドゥルーズ=ガタリによる「変則・異常 anomalie 」との差異に注目する。前者が近代の法的主体形成に関わる概念であり、必然的に「規範/侵犯」の構図を内包した概念であるのに比べて、後者は「希少性/数多性」の地平から出現する、いわば「マイノリティー」の概念であり、力の集合点として生成変化を特徴づけるものであると定義されている。ディドロ自身によって希少性として定義されているディドロの怪物概念は、それゆえ「変則・異常 anomalie 」として見なされうるであろう。こうして大橋は、ディドロの怪物概念と唯物論的枠組みを問うことと、生成変化の一様態を具体的・実践的な思考としてこととをかさ

まず第一に、「力」の卓越性がディドロの怪物概念を規定する。形相優先の形而上学的伝統に対して、ディドロは個物間の関係性が発露したものが個物の形だと主張する。個物とは個物間の関係、すなわち個物間の力のネットワークであり、個物間の関係が恒常的なものではない以上、特定の形をもたない。個物の怪物性がここから帰結する。第二に、ディドロにおいてこうした個物はカオス的な無限の生成の世界に存在している。淘汰と発生とが繰り返されるこのヴィジョンの中では、現在生きている生物はかつて死滅した怪物的生物と権利的に異なるものではない。

ディドロにおける怪物性を人間のモラルの問題と結び付けたときに、『ラモーの甥』の重要性が明らかとなる。最終的に『ラモーの甥』の主人公の怪物性をめぐる考察からドゥルーズ=ガタリとの共通点を導きだすことによって、この発表は締めくくられた。

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続く講演、ここ数年の研究成果だと前置きされたボヤン・マンチェフ氏(新ブルガリア大学)の「世界とその分身――出来事の存在論と変貌の存在論」は、きわめて明快な構図から出発している。マンチェフ氏は哲学史的な問題系をヘーゲル・ハイデガー的な「否定性の存在論」とスピノザ・ニーチェ的な「力の存在論」との二つの系譜の対立として設定し、両者を調和・中和させる審級としての「変貌 métamorphose 」および「出来事 événement 」の位相に注目する。「変貌」が両者を接近させる指標となり、「出来事」によって「否定性の存在論」の構造転換がなされる、というわけだ。

さて、逆に言えば「出来事」によって規定されている「否定性の存在論」の哲学には、急所となるその「出来事」を始点あるいは終点とした単線的な時間軸が随伴する。マンチェフ氏はこうした機能を備えた出来事を「黙示録的/メシア的出来事」と名付ける。ニーチェの永劫回帰、ベンヤミンの神的暴力、コジェーヴの「歴史の終わり」、あるいはデリダやバディウの言う「出来事」などは、みなこの範疇に属することになる。こうした究極の出来事は、ラディカルな変貌として自らを現わす。有限性=終局 finと変貌とが、ここにおいて結合する。すなわち、最終的なものこそが、変貌の帰結に他ならない。有限性=終局こそが変貌そのものであり、それが存在者の秩序を規定しているということがここから帰結する。そう、終局とは始まりでもあるのだ。

この出来事が有限性の経験を引き起こすならば、出来事は無限性と有限性という二重の側面をもつことになる。たとえば神の死。それは無限の領域を有限化することでもあるが、同時に(「復活」によって)有限を無限化することでもある。一神教的理論の中での有限と無限のこの交錯は変貌に伴う力を無効化する。キリスト教的終末論は変貌の力を地獄、あるいは悪魔的な力に帰せて排除するが、これと同様に、否定性の哲学の中で、変貌はそのようなものとして中性化され、還元されてしまったかのように見える。

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だが、マンチェフ氏は、抑圧の対象としてあった変貌の存在論を――まさに批判的=脱構築的に――解放し、現実的な力動性として捉え直していく。すなわち、否定性の残余としての「出来事」が存在に先んじて存在するのであって、それをまさにバタイユ的な「過剰 excès」として捉えることが可能なのであって、そうして、この剰余において――引き続きバタイユ的な用語法を用いるならば――「異化 altération 」の試みが賭けられる。存在と出来事をつなぐ変貌の試みは、「異化」の名において、構造上の完結を見るだろう。世界は、その異質性という鏡像=分身を有している。異化は、物質=質料の効力 efficacité の表面で生起する出来事であり、それがその物質の現実態 energeia に制限されることはない。出来事は、潜在性が(dynamis/energeiaの二分法を中和する形で)現実化した臨界的な変容として理解される。臨界的、すなわち出来事とは、冒頭に述べた終局 finitude の言い換えでもある。有限性の経験は、出来事として、そうして不可避な変容として存在論的に規定される。

変容と怪物性とをめぐる両者の発表は交差する点がきわめて多く、発表者相互の応酬も含め、多くの質疑が相次いでなされた。その活発な議論をここで再現することは差し控えるが、両者に残された共通の課題として、この不定形な、変容する出来事、あるいは怪物たちから「政治」を考えるときに、どのような組織化、あるいは動機付けの方法があるだろうかという問いが残されたということをあげておくことにしよう。
(以上、文責:大橋完太郎)

最終セッションでは、ジゼル・ベルクマン(国際哲学コレージュ・プログラム・ディレクター)氏が発表「ジャック・デリダと啓蒙」をおこなった。

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ジャック・デリダはルソー、コンディヤック、カントに何度も言及しているが、彼は啓蒙思想を批判的に検討すると同時に、「来たるべき世紀の新たな啓蒙」(『マルクスの亡霊たち』)を現在において再興し実践しようとした思想家ではなかっただろうか。つまり、啓蒙とは遺産相続されるものであると同時に、現代からたえず問いに付されるものである。

『グラマトロジーについて』のルソー読解において、デリダは純粋な痕跡――あらゆる時間性の可能性の条件――から現在時を思考するという戦略をとるが、この方向性はマルクス論で顕在化する倫理-政治的な思考にまで通底している。また、デリダは『法の力』で、法=権利の経験主義的位相と計算不可能で脱構築不可能な正義とを峻別するが、このことは事実と権利の発生を根本的に区別したルソー=カントの挙措ではないだろうか。デリダの脱構築の由来はフッサールやハイデガーの現象学のみならず、しばしば忘れられてきた別の系譜、すなわち、ドイツとフランスの啓蒙を有しているのである。

ユートピア性と批判が切り離しがたい点で、啓蒙と脱構築は深く共通している。デリダは『ならず者たち』において、「民主制という言葉の意味を厳密に考えるならば、真の民主制は、かつて存在したことがなかったし、これからもけっして存在しないだろう」(ルソー『社会契約論』第3巻4章)という一節を引用して注釈を加えている。不可能であるがゆえに必然的な民主制というルソーの主張は、デリダが掲げる「来たるべき民主主義」と深く共鳴するものだろう。

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国際哲学コレージュの20周年記念講演の際に、デリダはカントの『啓蒙とは何か』を引用したことがあるが、デリダはむしろ、彼自身の『啓蒙とは何か?』書き続けたのではないだろうか。フーコーもまた啓蒙について問うた思想家だが、カントが提示した経験的=超越論的主体を分析して、彼は「人間の消失」を告知した。デリダの方は、人間の消失を解消することでも、人間を完成させることでもなく、この二重の主体を消滅と完成、観念論と実証主義のあいだで宙づりにする。デリダにとって、啓蒙の再考と脱構築の手法は深く連関するのである。

(以上、文責:西山雄二)

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