【報告】Graduate Student Workshop on Secularization, Religion and the State
2010年1月21日、シンガポール国立大学アジア研究所において、同研究所とUTCP共催のGraduate Student Workshop on Secularization, Religion and the Stateが開催され、UTCPの世俗化プログラムの担当者である羽田正教授をはじめUTCPのPD研究員(内藤まりこ、阿部尚史)、RA研究員(渡邊祥子、金原典子、大野晃由、内田力)、共同研究員(諫早庸一)がそれぞれ報告を行った。
☆開会の辞
ワークショップの主催者である、Michael Feener教授(Asia Research Institute, Department of History, National University of Singapore)は、今回のワークショップを機に今後も東大とシンガポール国立大の交流を深めること、また東大の学生がAsia Research Instituteにポスドク研究員として戻ってくることを期待すると述べた。
マイケル・フィーナー氏による紹介と趣旨説明の後、羽田正(UTCP 「世俗化・国家・宗教」プログラム)が本プログラムの紹介と、本ワークショップの意義についての説明を行った。羽田は過去開催したワークショップや講演会、講義など、これまでの「世俗化・国家・宗教」プログラムの活動、を振り返り、「世俗化」にかかわる問題について、日本語話者が英語を用いて発表や議論を行う上で起こる困難に言及した。
日本語話者日本において「世俗secular」対「宗教religion」という語がヨーロッパから翻訳の形で輸入されたのは19世紀後半のことであった。日本人がsecularの語を用いる時には日本語の「世俗」の意味を思い浮かべ、religionの語を用いる時には「宗教」の語を思い浮かべる。しかし、“secular/religion” の区分は日本の歴史的状況に必ずしも合致せず、日本語の「世俗/宗教」という二項対立とは現在も齟齬を生じることが多い。「世俗化」の問題について議論を深めようとすれば、この差異をいかに意識し、埋めてゆくかが課題となると述べた。さらに羽田は「世俗/宗教」という区分が、とりわけ9.11以降「西洋/東洋」の二項対立と重ね合わされ、イスラム教徒への差別へと繋がっていることを指摘する。こうした状況を乗り越える上で、これらの対立を超えた「世界史」を構築することの重要性を強調した。
(文責:大野晃由)
同じく主催者であるPrasenjit Duara教授(Humanities and Social Sciences Research, National University of Singapore) は、自分の意見の多くが羽田教授と重なるとことを指摘した上で、宗教という概念は北西ヨーロッパの歴史に影響を受けているが、それが植民地化、またプロテスタントの普及により、多様な伝統を持つ地域へどのように広がり、受容されたのか、と問うことは興味深いと述べた。例えば、中国社会においては「自己と他者」ではなく、「天を拝む人々と他の神々を拝む人々」という区分に基づく世界観が根付いていた。しかしながら、アブラハム系の宗教、とくにプロテスタンティズムにおいては、神の下にいる信者という考え方があり、信仰により人々を組織化する。20世紀の中国においては、西洋のような組織化された宗教がない中から、世俗国家に対して組織化された宗教というものが作り出されていく。そして残りの組織化されなかったものは、迷信だとか異端なものであるとして扱われるようになる。
Duara教授はこのように、ある「言葉」、または「概念」を取り入れることで、歴史的に大きな変化が起こることについて述べ、アジア各地における宗教や世俗化概念の受容、またその後の歴史的展開を研究することが重要である、と結んだ。
(文責:金原典子)
☆Panel 1
パネル1では、内藤まりこ(東京大学UTCP特任研究員)、ロドニー・セバスチャン(シンガポール国立大学社会学研究科)両氏による報告が行なわれた。
内藤氏の発表「宗教/世俗二項対立の再考:近代日本における宗教の出現」は、夏目漱石の小説『心』(1914年)とラフカディオ・ハーンの論説『心―日本の内面生活の暗示と影響』(1896年)を取り上げた。内藤氏によれば、夏目漱石における宗教/世俗対立は、個人と国家、心と身体、内面世界と外面世界、遊民(非生産者)と生産的労働、という根本的な対立として現れる。ここで宗教は、国民国家と資本主義の支配する領域に対抗する、オルタナティブとしての役割を期待される。これに対しハーンは、東洋/西洋という別の対立軸を導入することで、宗教/世俗の対立を歴史化し、乗り越えようとした。
セバスチャン氏の発表「シンガポール世俗化モデルの再考」は、シンガポールにおける政教関係を取り上げた。セバスチャン氏は、独立前後から現代に至るまでのシンガポール国家の宗教統制政策を歴史的に概観した後で、政府が、多宗教国家シンガポールにおける政教分離と宗教的中立性の原則を標榜し、この方針に反するような宗教組織の活動や社会の運動を統制、時に弾圧する政策をとってきたことを確認する。その上で、個々の宗教がもたらす経済的利益と社会秩序への影響に応じて、国家は「促進」「承認」「監視」「弾圧」と振る舞いを変えると論じ、これを国家の「宗教管理モデル」として図式化した。
質疑においては、柳田國男など、民俗的なものの研究を通じてナショナリズムと強く関わる後世の思想家の出現を、今回内藤氏が論じた二人の思想化が設定した問題の延長線上に想定できるのかどうか、等が活発に議論された。セバスチャン氏の発表に関しては、フィリピン系の移民増加などで、シンガポールの宗教構成が変化しつつある事実などが指摘された。
(文責:渡邊祥子)
☆Panel 2
Panel 2では、阿部尚史(UTCP)とSiriporn Dabphet(シンガポール国立大学歴史学科大学院)が報告を行った。
阿部尚史Naofumi ABE(UTCP)
タイトル““Who Acknowledges his Rights ?” : Prelude to the “Modernization” of Judicial System in Mid-nineteenth Century Iran as seen in Persian Legal Documents”
阿部の報告は、19世紀にアジア・中東諸国が西欧列強と「不平等条約」を結ぶなかで導入されることになった商事裁判所、混合裁判所制度を世俗化という文脈から捉えなおそうという試みであった。近代における宗教と法の分離を世俗化・脱宗教化の一端と考え、特に「私権の保証」に注目し、イランにおける商事裁判所の導入を世俗化の嚆矢と論じた。一方で、実際に商業裁判所を利用する人々に、旧イラン領民であるコーカサス系のシーア派が多いため、私権の保証を求めた人々の文脈から論じることによって、西欧の影響力から近代化が始まったとする考え方を再検討する必要も論じた。
Siriporn Dabphet(シンガポール国立大学歴史学科大学院)
タイトル “State and Religion: Relationship and Changing of State and Religious Ideology in the Nineteenth-century Thailand.”
ダブフェットの報告は、19世紀、タイの普遍超越的な王権が、近代西欧の影響によって、世俗的な王権に変化した事情を論じた。元来、タイ王権の正当性は宗教的なイデオロギーによって裏付けられ、全てを超越した存在と見なされていたが、近代化されたエリート層が当時の西欧の様式に適合した形に変化され、19世紀半ばには、仏教の庇護者にして、国民の父と位置づけられるようになった。一方で現在にも残っている王の写真には、私服でくつろぐ王の姿などを映すものも数多くあり、王は一人の人間であることも強調され、国民に親しまれる対象となるような試みもなされたことが論じられた。
質疑においては、ダブフェットの報告に対して、欧米中心主義的な「世俗化」論を乗り越える可能性をタイの事例が持っているのではないかとの指摘があった。また阿部の報告に対しては、近代化論的な論調が目立つのではないか、という指摘がなされたのに対し、報告者は、報告中に述べた草の根からの視点によって、近代化論を乗り越えることができるのではないかと答えた。
(文責:阿部尚史)
☆Panel 3
Panel 3 では、諫早庸一(東京大学大学院生、UTCP 共同研究員)とGoh Yu Mei(シンガポール国立大学中国学学科大学院)が報告を行った。
諫早庸一Yoichi Isahaya (東京大学総合文化研究科博士課程Ph.D student, Graduate School of Arts and Sciences)
“Vicissitudes of Noruz / New Year’ Festival in the Iranian Context”
諫早は、祭りというものが「宗教」における近代の影響を論証するのに適した論題であることを指摘し、特にイランのノウルーズ祭(新年祭)を対象に議論した。諫早はイスラーム以前に起源をもつノウルーズ祭が、前近代において特にイスラームの学識者によってイスラームの文脈に適合されたかを論証した。一方このノウルーズ祭が、近代以降、民族主義的な傾向を持つ知識人によってイスラーム以前からつづく「世俗的な」祭式であることが強調され、イスラームから切り離されたことを論じ、「近代」が世俗化に与えた影響を明らかにした。
Goh Yu Mei(シンガポール国立大学中国学学科大学院)
“Old Scriptures in New Language: A Study of Discourse in Modern Yuli Baochao”
ユ=メイは、宋代以降中国で活発に執筆されるようになった『善書』すなわち倫理書に関する報告を行った。『善書』を読むこと、聞くことはともに功徳があることと見なされ、善行は積極的に奨励された。またこうした善書は、寺院等で配布されるなど一般庶民を対象とされていたという。ユ=メイは、善書の中でも『玉暦寶鈔』を取り上げ、その形式上の特徴や内容的な特徴を分析し、12世紀頃から現在まで続く、『善書』に代表される善行を重要視する意識について「宗教的」という視点から論じた。
質疑においては、ユ=メイの報告に対し、中国におけるキリスト教の布教時の教義が善書の教えの内容と共通点があるため、両者に何らの関連性があったのではないか、との指摘があった。また諫早の報告に対して、氏の祭祀と近代の関連性という論理的枠組みが他地域にも適応できるのかという点について問題提起がなされ、活発な議論が行われた。
(文責:阿部尚史)
☆Panel 4 (司会者 Professor Michael Feener)
Panel 4では、金原典子(UTCP, RA研究員)とTay Wei Leong (Department of History, National University of Singapore)が報告を行った。
第一の発表者金原典子(東京大学 総合文化研究科)は、Japanese Religious Spirit in the Writings of Tadakazu Uoki during World War IIと題した発表で、神学者である魚木忠一の戦争中の作品における「日本宗教精神」について分析した。1930年代初頭から日本政府は、「日本精神」を天皇への絶対的な忠誠心や日本民族の優越性を意味する言葉として広めた。キリスト教研究者は天皇制下における日本のキリスト教のあり方を模索していたが、多くは国策に便乗する形で、外来宗教であるキリスト教の日本的な要素を主張した。これらの研究者の如く魚木も「日本基督教」の成立を主張し、1941年『日本基督教の精神的伝統』を出版した。その中で彼は日本人の本質である日本宗教精神の触発によるキリスト教の体得と、その結果としての日本基督教の誕生について述べる。魚木の作品を評価する研究者の多くは、彼の日本基督教の主張が政府を肯定するためのものではなく、宗教の受容における文化要因という学術的関心に由来すると指摘する。しかし、魚木が超越の神による啓示が日本宗教精神に規定されると述べ、また日本宗教精神に基づく日本基督教の東アジアにおける優越性を主張することから、発表者は彼の意見が政府の掲げる天皇制を中心とした「日本精神」と変わらないことを指摘した。
第二の発表者Tay Wei Leong (Department of History, National University of Singapore)は、Kang You Wei, the Martin Luther of Confucianism and His Religious Nationalism and Modernityと題した発表で、康 有為の考える儒学的なナショナリズム及び「近代」について述べた。Leongによれば、康 有為は儒教を背徳的な清朝から守り、国家宗教とすることを目的に掲げることで現体制に反抗し、ナショナリズムの運動を起こした。ここには、宗教としての儒教的な近代のあり方が窺える。近代のあり方は、必ずしも世俗的ではないということが言えるということだ。Leongは宗教的な動きが世俗的な社会を変えることもあるのではないか、と問いかけた。そして、社会の「世俗的」な面と「宗教的」な面は常にお互いを影響しあっているのであり、個人にとってそうであるように、常にこの二つは共存し続けているのであると結論づけた。
第三の発表者内田力(東京大学 総合文化研究科)は、 “A Viewpoint of ‘Secularization, Religion and the State’: Japanese Historian AMINO Yoshihiko and his Concept of ‘People’”と題する発表で、歴史家である網野善彦の捉える「世俗化、宗教、国家」を「人民」という概念と関連付けて考察した。内田によれば、網野は、『無縁・公界・楽』(1978)のなかで、日本中世の宗教を人々に自由と平和を与えるものとみなす一方、それに対して独裁的な世俗権力があるとした。マルクス主義の強い影響を受けていたにも関わらず、彼が宗教を肯定的に捉えていた理由は、宗教が人民を世俗権力から守る役割を果たしていたと考えていたことが窺える。中世において、寺院は犯罪者のような、社会に受け入れられない人々が世俗権力から逃れることのできる場所、つまり無縁・公界・楽であった。このように、網野の作品は「人民」という軸を立てることで世俗化、宗教、国家についての新しい見解が得られることを提示する。また、彼が社会主義的な世界を目指していたことが、彼の概念形成に反映していたという事実は、個々人のイデオロギーを把握する必要性を浮き彫りにする。
(文責:金原典子)
☆Panel 5
Panel 5では、大野晃由(UTCP, RA研究員)と渡邊祥子(UTCP, RA研究員)が報告を行った。
第五パネルでは、フランスの植民地であったアルジェリアに関連して、宗主国と植民地双方の政教問題にかんする二つの報告がなされた。
まず大野晃由(言語情報科学専攻 UTCP RA)はフランスで2003年におこったスカーフ問題およびその報告書であるスタジ報告を出発点として、そこで示されるフランス知識人のムスリム観の起源を、19世紀の人権およびライシテ(政教分離)の形成過程に求めた。その例として大野はヴィクトル・ユゴーの思想を取り上げる。ユゴーはヨーロッパ内部のマイノリティに対する寛容と保護を訴え、人権の擁護者として神格化された。また、ユゴーはライシテに賛同する立場から、政治と教育の世俗化を主張した。一方でアルジェリアの植民地化について、ユゴーは「文明化の使命」の観点から賛同している。大野によれば、ユゴーはフランス文明の受容を「人間」の、つまり人権による保護の対象となる条件とした結果、「非文明」とされた植民地の人々は「非人間」であるとされ、また文明とはキリスト教とりわけカトリックであったために、フランス国内では教育は世俗化されるべきと主張した彼は、植民地では布教活動と教育とを同一視していたという。
渡邊祥子(地域文化研究専攻UTCP RA)は、ナショナリストとアルジェリア・ウラマー協会の「政治」概念にかんする発表を行った。アルジェリア・ナショナリストたちが宗教を政治闘争の最終目的としたのに対し、宗教指導者であるウラマーたちは、しばしば政治活動にかかわりながら、政治と宗教を対置し、自らを非政治的な存在と主張した。この差異の原因を、渡邊は「宗教」という概念の理解の差に求める。ナショナリストが個人のアイデンティティとして、自律的な個人と神との関係性として「宗教」を捉えるのに対し、ウラマーの考える宗教コミュニティ(ウンマUmma)は、自律的な個人を前提しない。渡邊は、ウラマーが自らをこのウンマの代表者として位置づけ、その内部のいかなる党派にも属しないことを「非政治的」と呼んでいたことを指摘した。ウラマーの関心はウンマの自立性を守ることにあったのであり、彼らは特定の党派によらず、権力に助言を与える存在であろうとしたのである。
発表に対し、いくつかの質問およびコメントが行われた。大野に対しては、カンボジアやヴェトナムなど、アルジェリア以外の植民地への言及は行われていないのか、あるいは植民地化を肯定する動機が宗教以外にもあったのではないか、といった質問がなされた。また渡邊に対しては、ウラマー協会の立場は、イスラム法の視点からも考えるべきではないかという質問が出た。
(文責:大野晃由)
☆Panel 6
Panel 6では、ノールシャフリール・ビン・サアト氏(シンガポール国立大学マレー研究研究科)、アラン・リー氏(シンガポール国立大学社会学研究科)が発表を行なった。
ビン・サアト氏の発表「国家、ウラマー、宗教性:現代マレーシアのイスラーム化再考」においては、マレーシアの「イスラーム化」現象におけるウラマー(イスラーム知識人)の役割が論じられた。現代マレーシアを代表する4人のウラマーを具体的に取り上げつつ、ビン・サアト氏は、国家に時に対抗し、社会の宗教性を正当化する上で、ウラマーが非常に大きな役割を担っている点を強調した。彼によれば、ウラマーの社会的影響力の背景には、ウラマーの権威への集団的コンセンサス、ウラマーの制度的独立、そのカリスマ性、さらにマレーシア独自の歴史的・社会的環境があるという。
リー氏の発表「二都市における”キリストの王国の再臨”:シンガポールとマレーシアにおける政教関係の比較研究」は、キリスト教青年組織・ボーイズ・ブリガードの活動を扱った。両国における同組織の教育内容を比較すると、シンガポールでは世俗的な道徳が強調されるのに対し、マレーシアにおいてはキリスト教的なアイデンティティが強調される傾向がある。これは、シンガポールが政教分離と世俗主義を採用し、マレーシアが国家的アイデンティティの一つに宗教(イスラームは国教)を採用している事実に対応していると言う。リー氏によれば、社会が世俗的であればあるほど、宗教組織は世俗的な外観の活動形態を、戦略的に選択するようになるのである。
質疑においては、ビン・サウト氏が取り上げた4人のウラマーの思想的傾向が四人四様であった点が注目され、スーフィーからナショナリズム、保守主義から近代主義まで、社会的な支持を得るための、相互差異化と競争関係がウラマーの間にあることが論じられた。リー氏の発表に対しては、キリスト教的アイデンティティと道徳的価値と言う、ボーイズ・ブリガードの称揚する価値の構成要素が検討された。
(文責:渡邊祥子)
以上、2年間の世俗化プログラムを締めくくる行事を、シンガポール国立大学と共催で行うことができた意義は非常に大きい。研究テーマの意義を直接シンガポール大学の研究者と議論した上、今後の学術的な一層の交流の可能性も広がった。
今回のシンガポール会議の実現を後押ししてくださったUTCPリーダーの小林康夫教授に感謝したいとおもいます。加えて事務的な手続きを処理してくださったPD研究員の内藤まりこさん(Panel 1の報告者)とUTCP事務局の立石はなさんに、また報告者の英文チェックを担当してくださった、Naveh FrumerさんとRichard Reitan教授にも謝意を表したいと存じます。最後に、同プログラムをこれまで指揮し、シンガポール会議実現にも最大の苦労を払われた羽田正教授に感謝の意を述べたいとおもいます。