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【報告】UTCPワークショップ「四つのディスクールをめぐって」

2009.12.30 小林康夫, 原和之, 荒川徹, 時代と無意識

2009年11月、UTCPワークショップ「四つのディスクールをめぐって」が開かれた。今回は小林康夫拠点リーダーを発題者とし、原和之氏をコメンテーターに迎えた。

小林康夫氏による提題は、今年5月にUTCPで行われたアラン・ジュランヴィル氏(レンヌ大学)による講演の問題提起を受けて、そこで扱われたジャック・ラカンの〈四つのディスクール〉を変奏し、資本主義時代を考察するものであった。その詳細は小林氏による雑誌『未来』の連載「〈歴史の真理〉に向かって」(2009年11-12月号)に掲載されているため、ここでは簡単に紹介したい。

アラン・ジュランヴィル氏による5月の講演「資本主義を讃えて──ラカン以降に構想しうる資本主義について」では、資本主義とは排除不可能な社会的悪がまとう最小の形態である、という逆説的なテーゼが提示されていた。ジュランヴィル氏がいうところの社会的な悪とは「パガニスム(土俗的異教)」の形態をとり、その悪の最大の形としては、たとえばホロコーストやテロリズムといったものとして表れることとなる。資本主義もパガニスムの一つであるものの、あくまでも法権利によって制御された範囲での、社会的な悪の最小形態であるというわけだ。そこで精神分析は、資本主義という排除不可能な疎外を引き受け、個人という「分離」へ到達する可能性を担うという。

小林氏は、精神分析によるそのような分離の可能性には疑問を呈したうえで、ラカンが1969-70年のセミネール内で提起した〈四つのディスクール〉をジュランヴィル氏が依拠したことに着目し、その論点を独自に変奏させてみる。当報告ではラカンによる分数を用いた四つ組の記号は表記困難であるため省略するが、小林氏は〈主人のディスクール〉、〈ヒステリーのディスクール〉、〈大学のディスクール〉、〈分析家のディスクール〉という四つの式を、いわばより脱-精神分析的な観点から解釈する。〈主人のディスクール〉は資本家のディスクールとして把握することができ、そこでは主人なき主人、つまりはシステムが支配するディスクールとしての資本主義というテーゼが導き出される。〈ヒステリーのディスクール〉においては、実存の疎外が身体の徴候として現れるヒステリーという存在が、治癒と解放をもたらす主人を求めることになる。〈大学のディスクール〉では、医学における投薬のように、個別性とは無関係な普遍的な知の共有が目的される。そして最後に重要な点として、小林氏は〈分析家のディスクール〉を〈文学のディスクール〉へと読み替える。ラカン=ジュランヴィルによる「屑をなす聖人」としての精神分析家は、小林氏によればむしろ文学・芸術という観点から把握することが可能である(たとえば、ボヴァリー夫人を治すフロベール)。慈悲ではなくむしろ屑を与えるものとしての文学者・芸術家のディスクールは、ラカン=ジュランヴィルが構築した無意識の四元的な構造に、分析家の立場とは異なる視座を与えることになる。

議論では、より現代的な症例の変化からみたラカンの時代の図式との差異や、〈四つのディスクール〉と非-全体性などをめぐって活発な議論が交わされた。

(報告:荒川徹)

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