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「世俗化・宗教・国家」セッション14

2009.12.03 羽田正, 内藤まりこ, 世俗化・宗教・国家

11月16日(月)、「共生のための国際哲学研究Ⅲ」第14回セミナーが行われた。

今回は、日本学術振興会特別研究員(PD)の後藤絵美氏による「現代エジプトにおける宗教と国家―ムスリム女性のヴェールを通して見えるもの」と題した報告が行われ、近年、エジプト国内でみられるムスリム女性のヴェール着用が取り上げられ、この現象を通してみえてくるイスラームという宗教と国家との関わりが論じられた。

報告では、まず、フランスやトルコで起きているいわゆる「スカーフ問題」が取り上げられ、学校等の公的空間において、スカーフがイスラームという「宗教」を指示するアイコンとして機能し、政教分離を掲げる「世俗」国家がそれを排除しようとする問題であることが確認された。すなわち、スカーフ問題とは、まさしく「世俗」、「国家」、「宗教」の問題系が交錯する場に立ち現われているのである。

次に、中東の諸国家におけるイスラームの扱いが概観された。現在のところ、中東15カ国では、憲法においてイスラームが国教とされ、イスラーム法が立法の源泉と規定されている。後藤氏が注目するのは、こうした憲法規定をもつこれらの国々が、実際には西洋法を導入し、国民主権に基づいた成文法を制定している点である(このことは、昨年10月、本ゼミで講演を行ったクラーク・ロンバルディ氏の議論においても確認される。
http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2008/11/report-seminar-secularization-6/)つまり、イスラーム国家と称される中東諸国において、イスラーム及びイスラーム法は、現行の成文法と合せて参照されているのである。

ここで、後藤氏はイスラーム国家の一つとされるエジプトを取り上げる。エジプトでは、国家の管理下にあるイスラームに関わる機関として、イスラーム法最高憲法裁判所とアズハル機構がある。憲法裁判所では、法令や行政措置が「イスラーム法の諸原則」に基づくものであるのかが判断され、イスラーム研究機関であるアズハル機構では、イスラーム法学裁定(フォトワー)が下される。後藤氏が指摘するのは、イスラーム法に基づくとされる裁定であっても、イスラーム及びイスラーム法のテキストをどのように解釈するかによって、その判断に揺れが生じてきたという点である。後藤氏は、こうしたイスラーム法の解釈の揺れが、歴代の大統領の下でのイスラームに対する姿勢においても確認されるとする。ナセル大統領(1956-1970)、サダト大統領(1970-1980)、ムバーラク大統領(1981-)と移行したエジプトの政権では、それぞれ、世俗主義、イスラーム主義、世俗主義の政策が掲げられたが、これらの方針の転換こそがイスラーム法の解釈の揺れを示していると考えられるのである。

最後に、後藤氏は、ムスリム女性が着用するヴェールをめぐってエジプト国内でおきた議論を取り上げ、論者のイスラーム法の解釈によってヴェールに対する異なる見解が示されていることを示した。こうした現代エジプトのヴェール論争を踏まえて後藤氏が強調するのは、イスラーム(法)が、解釈によって、世俗主義、イスラーム主義のいずれの立場も導き出すことが可能であるという点である。このことは、イスラームをア・プリオリに「宗教」と見なすような従来の議論を脱構築し、「宗教」と「世俗」という二項対立の概念を生み出した近代それ自体を問い直すための議論の地平を開く極めて重要な論点としてあろう。

議論では、エジプトの裁判制度がイスラーム法の解釈に左右されるのだとして、判例がどれほどの意味をなすのかという疑問が示されるなど、活発な意見が交わされた。なかでも、中東諸国家が掲げるイスラーム主義について、国家の正統性の危機にあたって、国家の原則をイスラーム(法)の語彙によって語ることで国家の存立を正当化しようとする国家の欲望が浮き彫りになっているという指摘や、世俗主義とイスラーム主義の間で揺れてきたエジプトの例は、国家がその輪郭を明らかにするために、その時々の国際情勢に応じてイスラーム(法)を利用し、解釈してきた過程とみることができるのではないかとする指摘は、本プログラムの問題の核心に触れるものとしてあった。

(文責:内藤まりこ)

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