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【報告】UTCPレクチャー「ジャン・フーケ」+UTCPセミナー「ベンヤミン再読」

2009.11.25 三浦篤, 近藤学, 平倉圭, イメージ研究の再構築, セミナー・講演会

2009年11月18日、アンリ・ゼルネール氏(ハーヴァード大学教授)によるレクチャーが、つづく20日にセミナーが開催された。

1. UTCPレクチャー「ジャン・フーケはいかにして「フランスの画家」となったか」

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【アンリ・ゼルネール教授】

15世紀中葉の画家ジャン・フーケは、今日ではフランス美術を代表する存在の一人として揺るぎない地位を獲得している。が、しかし常にそうであったわけではない——このような指摘とともにゼルネール氏はレクチャーを開始する。フーケはいつ、どのようにして「フランスの画家」となったのか。この問題を氏は、外的要因と内的要因の両面から考察してみせる。

初めに取り上げられるのが外的要因、つまり、フーケの作品がどのように受容されていったかという過程である。実を言えば彼の作品は没後しだいに忘れ去られ、17–18世紀のあいだは完全に美術史から消滅してしまっていたのであり、ふたたび注目を集めるようになったのは19世紀に入ってからのことにすぎない。そのさい先鞭を付けたのはドイツ人であったが、彼らの活動を通じてひとたびフーケの仕事が明確な輪郭を帯びはじめるや、1850年代に『フランス宮廷における諸芸術の再興』などの著作を世に問うたレオン・ド・ラボルド、1904年に「フランスのプリミティフ絵画」展を開催して大きな話題を呼んだアンリ・ブーショなどといったフランス人が、今度は本国で積極的に研究を進め、この画家を〈フランスの偉大な伝統〉の一部分として称揚していくことになった。この間の経緯を詳述しつつゼルネール氏は、同時代に勃興しつつあったナショナリズムとの関連に注意を促す。ド・ラボルドにせよブーショにせよ、まぎれもないナショナリストだったが、二人が美術史において打ち立てた業績は、彼らの政治的信条と不可分であった。フーケの再発見は、固有の伝統としてのフランス美術の連続性を主張するうえで決定的に重要だったというのである。

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以上のように指摘したうえでゼルネール氏は、さらに内的要因に論及する。ここで鍵となるのがフーケの生きた15世紀中葉という時代だ。周知のようにこの時期ヴァロア朝フランスはイングランドとの百年にわたる抗争のさなかにあり、度重なる敗北の結果、国家存亡の危機に瀕していた。同時に美術の文脈においてはフランドルにヤン・ファン・エイクが、イタリアにマザッチオがあらわれ、それぞれヨーロッパ規模の巨大な影響力を行使した。北方・南方両絵画に精通していたフーケは、その双方を取り入れながらもどちらか一方に還元されない独自の様式を確立しようとする(自らの名を大きく書き込んだルーヴル美術館蔵の《自画像》には、そうした彼の自負がありありと現れているとゼルネール氏は分析する)。それはまた、フランスという国の自律性を明確に提示する試みでもあったというわけである。

ここでフーケはおおよそ三つの戦略を採用したというのがゼルネール氏の見立てだ。第一に、写本挿絵においてはフランドルの伝統に連なる精緻な描写を展開するのに対し、《アヴィニョンのピエタ》などのタブロー画ではまったく異なった(むしろ同時代の彫刻に近い)ヴォリュームの大胆な配置を行うというように、特定の様式から意図的に距離を取っている。第二に、ランブール兄弟(《ベリー候のいとも豪華な時禱書》)や通称「ブシコー派の画家」といった同国人の偉大な先例を明瞭に想起させる空間構成を行い、自らの伝統と再接続しようと試みている。この点では、参照対象がいずれもフランスがまだ繁栄を誇っていた15世紀初頭に制作されたものであることが見逃せない。危機の時代に生きたフーケは、祖国が過去の栄華をふたたび取り戻すことを祈念して、その栄華を体現した先達の構図を——むろん彼一流の変奏を加えながら——借用しているのだ、とゼルネール氏は観察する。なおこのような過去の参照は肖像画や聖母子像にも見いだせる。第三に、背景を描くにあたって建築や田園をきわめて克明に描写し、他のどの国でもない〈フランスの風景〉として提示している。それぞれ微妙に異なるとはいえ、いずれもナショナル・アイデンティティの表現を目的としていることは疑いがないのである。

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このような主張が豊富な実例をまじえて展開されたあと質疑応答となった。主なやり取りを箇条書きふうに要約すれば以下の通りである。1) フーケが「フランスの画家」として認知されるにあたり、もっとも決定的だった時期とはいつか? 2) そもそもフランス絵画固有の特徴というものはあるのか? あるとすればそれはどのようなものか? 1) に対してゼルネール氏は、フーケの発見が19世紀初頭におけるプリミティフ絵画の再発見という汎ヨーロッパ的な流れの一部をなすものであることを、既述のドイツ、フランスに加えてベルギーの事例を紹介しながら再説された。また 2) の質問に関して氏はまず、フランス絵画を他とはっきり区別する特徴といったものが存在すること、個別の作品に対するとき我々はその特徴をいわば直観すること、この二点を認める。しかし肝心なのは、19世紀にしばしば唱えられたのとは異なって、そうした〈国民/国家的性質〉は自然発生的かつ永遠普遍のものではない、という点だ。フーケが自らの様式を練り上げる際も、19世紀に彼の作品が再発見され顕彰された際も、それぞれ同時代の状況が密接に関与していたのであり、フーケの「フランス性」はその歴史性を抜きに語ることはできないのである。

このほか 3) アントワープの聖母子像に見られるほとんど異常なまでに白い肌の表現は、イタリアにおける彩色テラコッタ(ルーカ・デッラ・ロッビアなど)と関連するのではないか。この質問に対してゼルネール氏は年代上の齟齬からそのような影響の可能性については疑義を呈し、むしろモデル(シャルル7世の愛妾で絶世の美女と謳われたアニェス・ソレル)の容色を讃えかつ引き立たせるための措置と見る考えを述べられた。

博引旁証にもかかわらず今回のレクチャーは原稿なし、しかし必要に応じてよどみなく事実や年代を挙げつつ進められ、ゼルネール氏の学識の深さを聴衆に印象づけた。また残念ながら詳述することはできなかったが、一点一点の具体例に触れる際の分析はきわめて繊細・犀利であり、「目利き」としての氏の面目躍如であった。司会の三浦篤氏がいみじくも述べられたように、全体としてきわめて正統的なイメージ研究の実演となっていた。

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【三浦篤教授(UTCP/司会)】

(報告:近藤学)

2. 「複製は本当にアウラを殺したか?——ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」再読」

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ひきつづき11月20日にはセミナー「複製は本当にアウラを殺したか?——ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」再読」がおこなわれた。議論のポイントは、「複製reproduction」という語の歴史的コンテクストを考察しつつ、ベンヤミンの主張とはやや異なって、「複製」が、かならずしも「アウラ」を抹殺するものではないという点を示すことにある。

まずゼルネール氏から3部構成の問題提起がおこなわれた。

はじめに「複製技術時代の芸術作品」のヴァージョンの問題について。よく知られるようにこのテキストは最初1936年、アドルノ、ホルクハイマー、レイモン・アロンらの手により、フランクフルト学派の機関誌『社会科学研究所紀要』にフランス語訳で掲載されたのだが、その第一版はベンヤミンの草稿に(本人立ち会いのもとでとはいえ)かなりの修正を行っている。とりわけいくつか削除された箇所があり、いずれも明白なマルクス主義的主張を含むくだりだった。もちろんここには、ナチス政権の成立(1933年)という事情がかかわっている。依然としてドイツにとどまっていたホルクハイマーらにとって、機関誌であからさまにマルクス主義を標榜することは避けるべき事態だったのだ(なお今回のセミナーでは、よりオリジナルに近いとされる第二版が使用された)。

次に扱われたのは「複製 reproduction 」という語の歴史的変遷である。現在でもそうであるように「reproduction」という語は、たんに「オリジナル」の対義語としての「複製」だけを意味するのではない。ゼルネール氏は主にフランス語の「reproduction」の意味の歴史的変遷をたどり、それが元は「再び起こること、再演」を意味し、18世紀には生物学的「生殖」を意味するようになったこと。1839年にダゲールによって発明された銀板写真について、画家のドラローシュが「自然は写真のなかに reproduce される」という言い方をしたこと、などを確認していく。そのどの用法においても、「reproduction」はオリジナルの機械的複製、ということを意味しない。

「複製」という意味での「reproduction」という語の用法が一般化するのは20世紀に入ってからである。そしてベンヤミンの知的コンテクストには、「オリジナル」と対立する意味ではない「reproduction」という語の多層的歴史が流れ込んでいることをゼルネール氏は確認する。(そして実際、複製は「アウラ」を殺すわけではなく、むしろ強めさえする。――ゼルネール氏は、ルーヴル美術館で《モナリザ》の前に群がる人々の姿を自ら撮影した写真を示してみせる。)

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【スクリーンに映っているのはルーヴル美術館内の《モナリザ》前で記念撮影をする人々】

最後に扱われたのは、「複製技術時代の芸術作品」における「映画」と「政治」の問題である。「複製技術時代の芸術作品」が中心的に問題にするのはポピュラー・カルチャーとしての「映画」である。そして大衆文化としての「映画」こそが、大衆をコントロールするファシズムの美学に抗して、真に大衆のための文化と共同性への道を開くことになる。レクチャーは歴史的コンテクストへの参照を多く含み簡単には要約できないが、以上は非常に大まかなまとめだ。

――だがいったい、ファシズムの美学と、大衆文化としての映画をほんとうに区別することができるのだろうか? ファシズムは、言うまでもなく当時もっとも強力なスペクタクルを駆使することで大衆を熱狂させた、極めて「映画的」な政治運動でもあったからだ。セミナーのあとでおこなわれた質問は、その点をめぐっているように思われた。

ベンヤミンはナチのプロパガンダ映画をどの程度意識していたか? アウラは「民族」の問題と結びつき、いわば「捏造された」起源の真正性へと人々を組織するものでもあるのではないか? こうした質問に対しゼルネール氏は、ナチが作り出したアウラは、まさに捏造された〈シミュラクルとしてのアウラ〉であり、それは〈本当のアウラ〉とは違うと応答する。

だが〈シミュラクルとしてのアウラ〉と〈本当のアウラ〉を区別することは、本当にできるのだろうか? 両者が区別できない(あるいは区別しにくい、あるいは〈本当のアウラ〉などそもそも存在しない)ことこそ、ベンヤミンが、本来の(?)自分自身の「アウラがかった文体」への傾向(これは問題提起のなかでしばしば取り上げられた点だ)に抗してまで、この「複製技術時代の芸術作品」という高度に政治的なテキストを書かなければならなかった理由であるのかもしれない。人を容易に熱狂とヒステリーとパニックに巻き込みうる映画の力(それが現在のハリウッド映画のもっとも強力な魅力だ)に抗して、容易に捏造されるアウラの経験に抗して、いわば映画というメディアの力能を捻じ曲げてまで、それを「注意散漫」な「ショック経験」というほとんど矛盾した受容経験へとほぐしていくこと。それがベンヤミンのテキストがおこなった闘争でもあったように報告者には思われた。

本セミナーは、登録制のクローズド形式で開催されたが、外部からも多くの参加者があり、終始開放的で親密な雰囲気のもとですすめられた。おいでくださった皆さま、知的に充実したセミナーを用意してくださったゼルネール氏、場を活気づけてくださった司会の近藤学氏(UTCP)、またセミナーの開催に尽力してくださった三浦篤・UTCP事業担当推進者はじめ「イメージ研究の再構築」プログラム関係者の皆さんに、謝意を表したい。

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(報告:平倉圭)

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