【イマージュに魅せられて 2】ジェネティック・シンポジウムの生成
*UTCP事業推進担当者の三浦篤さんによる不定期連載第2回です。
去る11月15日(日)に行われた「絵画の生成論」シンポジウムが成功裡に終わってほっとしている。秋晴れのさわやかな日曜日にもかかわらず、数理科学研究科の地下大講堂の薄暗がりの中で発表を聴き、スライドを見てくださった観衆の皆さんには大いなる感謝の気持ちを捧げたいが、その期待を裏切ることはなかったと思う。
【開会の辞/趣旨説明を述べる】
内容の詳しい報告は担当者に任せるが〔⇒こちら〕、このシンポジウムの意味や成り立ちについて少し書いておきたい。私の「イメージ研究の再構築」プログラムの4つの柱の一つがまさに「ジェネティック(生成論)」であり、美術作品の成り立ちについて多面的に考察する生成論的なアプローチは、今後のイメージ研究にとって必須のものと考えている。今年7月にUTCPに招聘したジュネーヴ大学のガンボーニ教授の「潜在的イメージ」という発想もまた、ジェネティックと密接につながるものであった。そして、今回セゴレーヌ・ル・メン教授、アンリ・ゼルネール教授を招聘したのは、この問題について深い関心をお持ちであることがよく分かっていたからである。というのも、パリのITEM (Institut des textes et manuscrits modernes) が刊行している文学を中心に生成論研究に特化した国際的な学術誌 Genesis が、2004年に “Formes” という特集号を出して美術作品におけるジェネティックの問題を集中的に扱っていて、そのときの責任編集者がル・メン教授で、寄稿者にはゼルネール教授、ガンボーニ教授も加わっていたのである。新しいイメージ研究を目指す美術史家たちの間に、このテーマは深く浸透していると言えよう。
実際、絵画がどのようにして生み出されたのかという問いに対する根本的、包括的な問題提起は、今こそ必要ではないのか。それは、文学研究におけるテクストの生成論(草稿研究など)に近いとはいえ、デッサン、習作、下絵などの調査に止まらず、多角的な視点から絵画作品の成り立ちを検討する方法論的な態度にほかならない。作品の生成プロセスは、構想段階 (inspirations, sources etc.) から制作過程(étude, esquisse, ébauche etc.)を経て完成作(l’œuvre fini)へ、という単純な進化の図式に収斂させてしまっては決して見えない部分がある。例えば、逆に作品から構想へとさかのぼっていくならば、本来あった豊かな潜在的可能性を次第に失っていったプロセスとも見えるだろう。作品の生成について文学的、図像的な発想源のみならず、作者の無意識まで探求することができるならば、精神分析との接点も見い出せるであろう。
他にも探求すべき視点は少なくない。いったい完成と未完成の境界はどこにあるのか。いや、そもそも作品に完成はあるのか。作品は作者の死後にも変化し続ける以上、極論すれば永遠の未完成と見なすこともできるだろう。さらには、絵画表面の作り方やその具体的な様相を精細に検証するというアプローチもあるだろう。筆触の効果、筆の勢いやかすれ、絵具の物質感や塗り方、絵具層の重なりなど、絵の表面を複雑に、豊かにするさまざまな工夫を見直していけば、近代絵画史とはよく言われるように平面化を志向する道のりではなく、平面化を遅延させる試みの連続とも見えるのではなかろうか。よく言われるモダニズム絵画の再検討は、ジェネティックもまた担っている。加えて、複製の機能、役割という見落としがちな視点もある。複製画像(版画や写真)がイメージを流布させ、作者の意識や制作プロセスにまで関与していく場合があるし、イメージ生成におけるオリジナルとコピーの問題も再考する余地があるだろう。ジェネティックの包含する範囲はかくも広く限りない。
【左より三浦篤、アンリ・ゼルネール、佐藤康宏、セゴレーヌ・ル・メン、近藤学の各発表者】
今回のシンポジウムの対象となったのが主としてフランス近代絵画であったことは、限界を孕みながらも問題の集中化に役立ったと考えている。ただし、「イメージ研究の再構築」プログラムから2名(三浦、近藤)、関心のある外国人研究者2名(ゼルネール、ル・メン)のほかに、日本絵画史の研究者も1名加えたことで問題に広がりを与えることができたと思う。本学美術史学科の佐藤康宏教授がご専門の江戸絵画史から適切な作例を挙げて寄与してくださったことにより、少なくとも西洋と日本における同様の問題を同一次元で議論することができた。こういう東西比較対照の視点が組み込まれる場合、結局は西洋と日本の影響関係の確認に終始したり、表層的な比較論に終わったりすることがほとんどであるが、今回のシンポジウムでは「絵画の生成」というテーマを普遍的なレヴェルで論じることができるように、日本の部分を単なる付け足しにしない、浮かせないという態度で、全体の構成を練り上げた。
実際、3部構成のシンポジウムにおいて、第1部、第2部の発表が期せずしてバトン・リレーのような形で受け渡されていったのは予想を超えた展開であった。私が全体の趣旨説明を行った後、ゼルネール教授がまさに生成論の多様な側面を示すアングルの作例を論じられ、佐藤教授がさらに日本絵画と中国画譜の関係へと問題を広げられて、複製とオリジナリティの問題を示唆された。休憩をはさんだ後で、ル・メン教授が民衆版画との関わりの中で、クールベの個人史にとっても重要な自画像の生成プロセスを解明され、次いで私がマネによる絵画の「脱構築」作業を踏まえて、「オペラ座の仮装舞踏会」の二つのヴァージョンの意味を変える仮説を提出した。最後に、近藤研究員は主に1910年代後半のマティスの絵画生成を取り上げ、重層的な塗りの構造と様式の並行関係という視座を打ち出した。五つの発表相互に共鳴する部分が多々あり、当事者としても全体がハーモニーを成しているという印象を受けていた。
したがって、全体討議もまた、事前の打ち合わせをまったくやっていないにも関わらず、会場からの質問をすくい上げながら、談論風発風に進行させることができた。問題意識の共有と知的なひらめきによる綱渡りであったと言ってもよいが、討議に参加した発表者がインプロヴィゼーションの楽しさを感じながら話していたというのは、司会進行を務めた私だけの感想ではないと思う。
むろん、残された問題が多いのは承知しているが、何かの結論を出すための機会ではなく、むしろ問題を提起し、今後の研究を発展させることを意図していたので、その点では充分な成果があったと思っている。ゼルネール教授、ル・メン教授とも、シンポジウム以外にも講演会とセミナーをこなしてくださり、日本の研究者と交流し、学生たちへ刺戟を与えていただいたことを感謝している。今後の国際連携を模索する上でとても重要な2週間であったと、プログラム責任者として認識する次第である。
(三浦篤)
【会場風景】
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