【報告】UTCPレクチャー「疑念と寓意——ルドンとゴーギャンに関する新視点」
2009年7月12日、東京大学駒場キャンパス18号館ホールで、今秋から始動するUTCP中期教育プログラム「イメージ研究の再構築」のプレイベントとして、ジュネーヴ大学教授で美術史家のダリオ・ガンボーニ氏による講演「疑念と寓意――ルドンとゴーギャンに関する新視点」が行われた。司会はUTCPの三浦篤教授。当初の見積もりを大きく上回る数――およそ150人――の聴衆が会場に詰めかけ、新プログラムの幕開けにふさわしい盛況となった。
ダリオ・ガンボーニ教授
講演の前半部(ただし分量的にはおよそ三分の二だったといえる)は、オディロン・ルドンの分析に割かれ、ルドンとの出会いから現在の関心にいたるまで、氏の研究遍歴をたどる形で進行した。ローザンヌ大学時代、フィリップ・ジュノーのセミナーに出席したガンボーニ氏は、ルドンの著作『私自身に』(邦訳はみすず書房から刊行)がはらむ問題、具体的には、ルドンの芸術がユイスマンスをはじめとする文学と強い関係を持っているにも関わらず、ルドン自身がその関係性をことごとく著作のなかで否定しているという問題に取り組むことになる。ルドンにおける芸術と文学との両義的な関係を探る過程で、その背後にある新しい社会制度――〈画商-批評家システム〉――に注目したガンボーニ氏は、コンテクストの分析のためにピエール・ブルデューの社会学へと接近し、その成果を博士論文としてまとめる。フランスのミニュイ社から『ペンと絵筆』というタイトルで刊行されたこの著作は、最近の研究成果を加えた増補版が近日中に日本語に翻訳される予定である。
ルドンと文学の関係に対して社会・制度分析というアプローチを行った後、より具体的な作品イメージの分析へと向かったガンボーニ氏は、ドイツの出版社の依頼で書かれた本のなかで、《狂気(フォリー)》という名で長らく知られてきた1883年のルドンの木炭画の分析を行うことになる。画家の草稿に当たることで、その木炭画のオリジナルのタイトルがエドガー・アラン・ポーの短編「アモンティリャード(シェリー酒の一種)の樽」と同じであることを知ったガンボーニ氏は、ルドンがこの木炭画のなかでポーの作品をどのように「暗示」しているかに着目する。人物像(=主人公フォルトゥナート。短編のなかでは、カーニヴァルの日にアモンティリャードを飲ませてやるという罠にかかり語り手に生き埋めにされる)の背景の一部は、フォルトゥナートに後ろから忍び寄り、呑み込もうとする禍々しい口を思わせる。いっぽうフォルトゥナートの帽子にはいくつも鈴がついていて楽しげな祭りの日の輪舞を喚起し、道化師ふうの衣装やイタリア語で「幸せ者」を意味する名とあいまって、彼が置かれた状況を一層アイロニカルなものにしている。また、額の上に垂れさがった二つの鈴は、フォルトゥナートの眼を二重化し、彼の巨大な眼が湛える虚ろな印象をより強めている。こうしたルドンの暗示的イメージは、たとえばギュスターヴ・ドレの作品に見られる明示的イメージ(眼が同時に鈴である)とは異なり、見るものに奇妙な動揺を与える。ルドン自身がメタファーに関心を持ち、見ることは「複数の事物の諸関係を本能的にとらえること」だと考えていたことを指摘したガンボーニ氏は、《告げ口心臓》や《赤死病の仮面》といったルドンの他の木炭画に示された暗示的イメージも極めて明晰に分析された。
「神秘の感覚はつねに両義的なもののなかにある。二重・三重の外見、外見への疑念(イメージの中のイメージ)、やがて形成されるだろう形態、観る者の精神状態に応じて形成される形態のなかにあるのだ。」 1902年に書かれたルドンのこの言葉を手掛かりに、ガンボーニ氏はルドンの「暗示」の美学をさらに踏み込んだ形で分析していく。ルドンは、ガンボーニ氏が「潜在的イメージ」と呼ぶ作品、すなわち、外見に対して「疑念」を抱かせるような作品、イメージの不確定性と曖昧性が強調された作品、ひとつのイメージのなかに別のイメージが潜在している作品をいくつも残している。たとえば、《大きな帽子を被った男》は、左に90度回転させてみると、肩の部分に右足と右腕を伸ばした全身像の男性を見いだすことができる。また、リトグラフ作品《ドルイドの女性》は、同じ年に制作された《パルジファル》の最初のヴァージョンの下半分を上下逆さにして再利用したものであることが分かる。このように、ルドンの作品は鑑賞者を動揺させ、能動的に作品制作の現場へ参加させるような「潜在的イメージ」だといえる。重要なのは、ルドンがこのようなイメージの制作を、明確な判じ絵として意図的に行っているのではなく、あくまで無意識的・暗示的に行っているということであり、だからこそ、「観る者」は先の読めない幻想の小径へと誘われることになるのだ。ガンボーニ氏は、鑑賞者を能動的にするルドンの「潜在的イメージ」に、美学的コミュニケーションの変容を見出す。すなわち、作品を「観る者」は芸術家にとって必要不可欠なパートナーとなったのである。この視点に立てば、デュシャンの《泉》もまた、便器をその機能的な文脈から解放し、鑑賞者の想像的知覚に訴えるような作品だといえる。ルドンとルドンを称賛したデュシャンとの連続性に目を向けることで、ガンボーニ氏は19世紀と20世紀とを単純に分断しないような美術史の視点を提唱された。
ここから話は後半部、すなわち、ルドンの同時代人ゴーギャンの作品の分析へと移る。ゴーギャンもまた、ルドンと同様に視覚的曖昧さを利用した「潜在的イメージ」と呼ぶべき作品を数多く残している。まず1888年に描かれたゴーギャンの《深い淵の上にて》をとりあげたガンボーニ氏は、岸壁と山と海に囲まれた画面中央部に着目し、それを単なる岩に打ちつける波ではなく、右側を向いた横顔として解釈し、その上で、その横顔がファン・ゴッホの描いたゴーギャンの肖像とかなり類似していることを指摘する。つまり、ゴーギャンは風景のなかに自己のイメージを潜在させたことになる。この手法は、ゴーギャンが絵画を単なる自然=外的世界の表象ではなく、内面的・精神的なものを形象化した「寓意」として捉えていたことと合致する。彼が、「思考の神秘的な核心ではなく、眼の周辺(=外的世界)」を探索していた印象派を非難したのもそのためである。内面的なものや精神的なものを形象化し、それを絵画のなかに潜在させるというゴーギャンの手法を、タヒチで描かれた作品《マナオ・トゥパパウ(死霊が見つめる)》や《パラヒ・テ・マラエ(聖なる山)》のなかにも見出したガンボーニ氏は、そのことを実証的な手続きを踏まえて明示された後、最後に、全く異なるタイプの作品を残したルドンとゴーギャンがそれぞれ相手に対して示した讃辞を紹介し、両者が共にイメージの不確定性や曖昧性を重視した点で共通していることを改めて確認することで講演を終えられた。
実証的研究に基づいた繊細なイメージ分析と豊富な例証はきわめて説得的であると同時に刺激的であり、会場からは時間いっぱいまで多くの質問が寄せられた。ここではそれらの質問のいくつかをごく簡単に紹介するに留めたい。アール・ヌーヴォーの先駆者といえるゴーギャンは絵画と装飾の区分が無効になるような総合芸術(art total)に関心を抱いていたのではないか。「暗示」的イメージを通じたルドンとゴーギャンという二人の作家の共通性はよく理解できたが、両者にはその「暗示」の仕方に相違があるのではないか。ルドンの作品《閉じられた眼》にはどのような「暗示」があるのか。ユイスマンスをはじめとする作家たちとの関係が、なぜ途中からルドンにとって障害となったのか。これらの質問にガンボーニ氏は非常に丁寧に回答されただけでなく、提起された質問をまた改めて考え直すことで、さらに自分の研究を深めていくことを約束された。
なお、講演者であるガンボーニ氏の仕事についてさらに詳しく知りたい方は、三元社の『西洋美術研究』第6号に掲載された「現代美術とイコノクラスム」(飛嶋隆信+近藤学訳)と、それに添えられた三浦篤教授の簡潔な解題、そして2007年に日本語訳が刊行された『潜在的イメージ』(藤原貞朗訳)とその「訳者あとがき」を参照していただきたい。
(文責:桑田光平)