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「世俗化・宗教・国家」セッション8

2009.07.03 羽田正, 世俗化・宗教・国家

6月29日、「共生のための国際哲学研究Ⅲ」第8回セミナーが行われた。

今回は、本プログラムのために来日するクリスチャン・ウル教授の西田幾多郎の仏教思想に関するレクチャーの準備として充てられた。ウル教授と親交が深い、現在来日中のウィレーン・ムーティ教授(カナダ・オタワ大学、日本・中国思想史)に御願いをして、「西田幾多郎:明治仏教と資本主義の二律背反」と題する報告を行っていただいた。報告に際して、参加者が事前に講読した文献は以下の通りである。

・西田幾多郎「純粋経験」および「宗教」 同『善の研究—思索と体験』東京: 弘道館, 1911年(『西田幾多郎全集』第1巻, 東京:岩波書店, 1965年)
・西田幾多郎「場所的論理と宗教的世界観」同『哲学論文集第七』東京: 岩波書店, 1946年(『西田幾多郎全集』第11巻, 東京:岩波書店, 1965年)

最初にムーティ教授は、西田は、「近代」のもつ歴史的意義を検証せず、「近代」を批判するため、解決されざる問題を抱えていると指摘し、まずは、西田の思想に先立ち、宗教と近代の関係を分析することから始めた。ここで重要なのは、宗教の概念そのものである。近年、近代以降の宗教を特別な存在と見なす議論が盛んで、日本の例を検証した磯前順一によれば、近代宗教は、practiceからbeliefへという大きな変化があったという。しかし、磯前の議論にしても、「近代」についての理解が不十分ではないか、とムーティ教授は指摘する。
 西田が活動する以前の、明治期日本の廃仏毀釈を論じた安丸は(『神々の明治維新』(本セミナー第5回セッション参照))は、明治国家が国際社会の中で「近代化」する過程で、宗教政策に変化が見られると述べた。それに対し、ムーティ教授は「国際社会との関係」、すなわち、資本主義との関係が十分に論じられていないことが明らかにし、その上で、マルクス主義の影響を受けたルカーチの議論を積極的に援用する必要性を示唆した。
 ルカーチは資本主義を思想の枠組みの中で捉え、近代資本主義の発展の中で、人間の労働によって獲得される、労働生産物が、貨幣によって一律に換算されるようになり、世界的な合理化と商品形態化が発生したことを論じ、近代を合理化と国際資本主義という視点からとらえる。
 ルカーチの物象化論に触れた後、西田に先行する日本思想として、井上円了、清沢満之を紹介された。両者は宗教、仏教思想を用いて主体と客体の対立を乗り越えようとしたことで、西田に先行する重要性を持つという。
 以上を踏まえた上で、本報告の目的である西田幾多郎の思想の検討に移った。ムーティ教授によれば、翌週講演をするウル氏は、西田の思想を世界的思想の流れの中に位置づけることを意図しているという。
 さて西田の「純粋経験」に関する議論であるが、これは時間との関係を重視している。有名な「色を見、音を聞く刹那」という表現からもこのことが窺える。西田の思想については、自己を超越する経験、純粋経験を理解した後に、宗教への考察を深めることができる。つまり、神とのつながりとはすなわち主体性とつながることになる、という議論である。
西田は、神を乗り越えるために神を否定する、すなわち西洋近代を乗り越えるための哲学を模索するようになったという。西田自身はある程度近代を認識していたのだが、彼の思想は歴史的見解を欠くという批判が弟子達を中心になされ、修正が加えられたという。
その後、一連の思索のなかで、西田は、宗教と世界は歴史を超越すると考える一方で、国家の背後に歴史的生命を認めた。西田は世界史的立場の必要性は理解するも、終末論に傾き、時間を超越する方向に進み、新しい世界史像を提示しなかった。加えて、自由主義的立場をとる西田は、道徳と宗教の区別を認めて、国家を超えることを意図していたが、新しい国家像・世界像を提示することはなかった。西田は、ルカーチの指摘するような「物象化」を批判的に捉えるものの、物象化そのものを十分理解していなかったのではないか、とムーティ教授は指摘し、西田の近代批判の限界を明らかにした。

ムーティ教授の報告の後、直ちに質疑に移った。複数の参加者から、『善の研究』に見られる西田の宗教認識がキリスト教の神を念頭に置いているのではないか、という指摘がなされた。これに対してムーティ教授は、西田は必ずしもキリスト教的神のみを想定しているわけではない、その理由として、キリスト教の神は超越神であるが、西田思想における神は、主体・客体と一体になったところに存在するためである、と答えた。
 また西田の宗教認識において、一神教的宗教が多神教に比して発展的と解釈されていることに疑問が投げかけられた。他にも、『善の研究』(1911)における宗教認識と「場所的論理と宗教的世界認識」(1945年脱稿)における宗教認識に大きな差が見られるのではないか、両著作執筆の間隔に、西田の思想的発展が影響しているのではないか、という問いに対して、ムーティ教授は、西田の思想的発展も重要であるが、その継続性にも注目したいと答えた。
 この他、西田や京都学派が日本思想史の中で特異な存在なのか、という西田の歴史的位置づけや意義にかんする質問については、報告の中でも取り上げた井上円了や清沢満之らをはじめとする明治、大正期の思想との関係性を重視することにより、当時の日本の全体的な思想潮流の中に位置づけることが出来るのではないか、と示唆した。
 最後にムーティ教授は、「近代」と「前近代」の区別の問題を取り上げ、前近代は、近代という概念があって初めて成り立つものであり、近代を出発点として前近代が存在することを強調し、前近代史研究を行う意義を参加者に問いかけた。この問題は、歴史研究者全てに深刻な問題であると思われる。

以上、4月以降、本セミナーで続けられてきた世俗化・宗教・国家に関する議論を、思想的文脈の中で考えるため、西田の思想を取り上げたのであるが、参加者の多くは難解な議論に頭を悩ませたと同時に、新しい知的な興奮を得たと思われる。
 ウル教授のレクチャーの前に、西田の思想の問題点と近代思想史の中での位置づけを分かりやすく丁寧に説明し、また様々な疑問にも真摯に回答してくださったムーティ教授に謝意を表したい。

(文責:阿部尚史)

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