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【報告】日本思想セミナー「群島的思考――日本における移動する理論」

2009.07.09 デンニッツァ・ガブラコヴァ, 早尾貴紀, 日本思想セミナー

 7月7日に、UTCP共同研究員で、香港城市大学のデンニッツァ・ガブラコヴァさんによる日本思想セミナー「群島的思考――日本における移動する理論」が開催された。「群島(archipelago)」をめぐる議論は、とりわけ昨年末に刊行された今福龍太氏の『群島-世界論』(岩波書店)という力業もあって、注目を集めている。

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 群島論とは、端的に、「大陸」中心の近代的歴史観に対するアンチテーゼであり、実は海洋交通によってこそ近代世界は開始されたという逆説を浮き彫りにするものだ。ガブラコヴァさんは、報告の冒頭で、沼野充義氏や田中純氏による『群島-世界論』に寄せられた書評を紹介しつつ、群島論がまさに「新しい世界ヴィジョン」であるという点で画期的なものと評価されていることを指摘した。そしてそれと同時に、群島論は、被支配性や周辺性や移動といった視点を軸にしているという意味で、ポストコロニアリズムと近い関係にある。

 しかし、ガブラコヴァ報告は、500頁を越える大著である『群島-世界論』を概観することを主眼とするわけではなく、むしろそれに先だって2006年に刊行されていた今福氏と詩人の吉増剛造氏との対談『アーキペラゴ――群島としての世界へ』(岩波書店)の第一章「多島海、あるいは千々石」に着目する。とりわけそこから読み取られる重要なポイントは、群島思考の特徴として、認識論的な「反転」があることだ。大陸と海、地と図の反転だ。世界史ヴィジョンも、大陸史観から海洋史観へと反転する。

 今福氏が反転の契機に触れたところで、吉増氏がヴァルター・ベンヤミンの「靴下の裏返し」についてのエッセイを書いていたことを想起しつつ、さらに「傷」というもう一つのキー概念を提起している。思考の傷、認識の傷。それは欠陥かもしれないけれども、その傷口から反転する、あるいは反転して傷を開くことになる。

 ガブラコヴァさんは、そこから、「戦後思想の傷口」としての「アメリカという大陸」の問題に触れ、ポストコロニアリズム思想との接点について議論を広げた。すなわち、1898年にアメリカはハワイやプエルトリコやフィリピンを支配ないし併合したが、日本はそれに先だって琉球処分によって沖縄を併合していた(沖縄にとって日本本土は「大陸」だ)。その日本・沖縄は戦後はアメリカの強力な影響下にある。もしいまの日米(軍事)同盟という戦後、あるいはアメリカ中心主義に抵抗するのであれば、群島思考こそが求められているのではないか。

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 ガブラコヴァさんは、ポストコロニアリズムに関連して、そこにもう一つの補助線を加えた。「移動する理論」を二度論じたエドワード・サイードだ。最初に論じたときには、ジェルジ・ルカーチからレイモンド・ウィリアムズを経てミシェル・フーコーへと至る「理論の稀薄化」の線をトレースしたが、「移動する理論・再考」では同じくルカーチから出発しながら、テオドール・アドルノを経てフランツ・ファノンへと至る「理論の白熱」の線をトレースした。「移動」概念をめぐって、サイードはポストコロニアリズム理論に接近し、そこに内在するテンションを(再)主張するようになった。
 この「移動」の思考と、群島思考とが共鳴しているのではないだろうか。

 討議では、リーダーの小林康夫氏が「白熱」した問題提起をしていた。今福龍太氏の『群島-世界論』は、ものすごく魅力的な書物で、自分もこういう仕事をしたかった、「やられた!」とも感じる一方で、しかし同時にこれでいいのか、という疑念が強く残っている、と小林氏は指摘した。今福群島論は、「人類学の終焉」の金字塔なのではないか、つまり、強い認識主体が世界認識をするというのは西洋中心主義の人類学の振る舞いと同じで、西洋ロマン主義のパトスが共有されている。そのロマン主義的パトスの最後の輝きとして読まれる可能性は否定できない、というのだ。

 実際、「振り向いた水平線上から帰るべき陸地が消えた時、人ははじめて未知の自由を得る。〈わたし〉こそが水平線であることを発見するからだ」(今福『群島-世界論』472頁)という印象的な一節には、コロニアルな欲望への危険が読み取られるのではないか。そして実は、今福氏の対談相手である吉増氏は、一見すると同調するような立場に見えながら、今福氏の危うさに気がついており、同じテーマについて同じタームで語っていながら、かなり異なる感覚で異論を併置しているのではないか、と小林氏は補足した。

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 最後に、ブログ報告者である早尾からも補足(当日会場でも発言はしたが)。
 吉増剛造氏の「靴下/手袋の反転」と「傷」の議論には、ジャン・ジュネの響きもあると思う。より正確に言えば、ジュネを論じた梅木達郎氏の『放浪文学論――ジャン・ジュネの余白に』の響きだ。というのも、吉増氏の「書評詩」的な作品のなかで(たしか『剥きだしの野の花――詩から世界へ』2001年だったと思う)、梅木氏の『放浪文学論』について論じていて、しかも具体的に「世界は手袋のように裏返る」と言ったジュネの「反転」の戦略について論じたところにわざわざ触れていたことがあるからだ。そして、『放浪文学論』には、「反転」の章だけでなく、「傷」の章もあり、そこでは開口部としての「傷」が内部と外部を反転させる裂け目として論じられている(そのことでナショナリズムを批判している)。

 実際吉増氏は、対談でも、靴下だけでなく「手袋」とも言っている(p.57やp.59)。さらに、ベンヤミンの靴下の逸話を持ち出す直前に、「そういえば、誰かの心の絵にもそういうヴィジョンがあったなという想起が咄嗟に心をかすめていました」(吉増、p.31)という前置きがあるが、その「誰か」は梅木達郎氏のことではないかな、という気がするのだ。
 「群島」思考、それはジュネにあっては「放浪」と名指されていたものだと思うし、今福氏に対して危うさを覚えた(はずだと小林氏が言う)吉増氏のなかには、そのジュネの響きが、梅木氏を通して流れているだろう。

 香港に戻ったガブラコヴァさんに、私の手元にある梅木氏の『放浪文学論——ジャン・ジュネの余白に』を送る約束をしました。この本を「放浪」させるために。

(文責:早尾貴紀)

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