Blog / ブログ

 

【報告】UTCP Graduate Conference "The Plural Present of Historical Life"

2009.06.07 中島隆博, 荒川徹, 宇野瑞木, UTCP

2009年5月15-17日、UTCPグラデュエート・カンファレンス「The Plural Present of Historical Life(歴史的生における複数の現在)」が行われた。

このイヴェントは、UTCP・ニューヨーク大学・北京大学・華東師範大学の共催で、大学院生が主体となり企画・運営を行った国際学会である。昨年3月に、ニューヨーク大学で行われたカンファレンス「Age of Comparison?」の続編に当たる。2日間で6つのセッションが行われ、20人が発表し、キーノート・スピーチにはニューヨーク大学の張旭東教授を迎えた。歴史的時間の複数性をテーマに、現代美術から政治学に至る多様なテーマにおいて、きわめて活発な議論が行われた。

最初に、カンファレンスの企画趣旨について簡単に説明しておきたい。「The Plural Present 複数の現在」という奇妙なコンセプト自体は、アメリカの美術史家ジョージ・キューブラー(George Kubler, 1912-96)の著作『The Shape of Time: Remarks on the History of Things』(1962年)の最終部の見出しから採られた。だが、そこから他の時間論・歴史論を経由しずいぶん敷衍している。時間における〈現在〉とは絶対的・単線的なものではなく、観察者の視点や動きに応じて多様に変化する。それでもなお時間を単一のものと仮構させているものがあるとしたら、それは複数の時間を束ねる同期的ネットワークの技術がなせるものにほかならない。個人を超えた歴史のなかに埋め込まれた生もまた、複数の時差と同期のなかで営まれているはずだ。だが、そこで時間経験の相対性や多元性を肯定するだけでは、分裂した〈現在〉の数を増殖させるにとどまるかもしれない。むしろ、歴史的生における複数の現在を、時間横断的に結合する同期的ネットワークをいかに構築するかが、実践的に問われるべきである。歴史的時間の複数性を描くモデルの可能性と方法論こそを、われわれは探求したい——発表者の方々にはあらかじめそのような問いを提示した。

session1a.jpg

それぞれのセッションを——ほとんど発表の羅列になってしまうのが心残りではあるが——簡単に紹介しよう。アブストラクトなどに関しては、公式サイトをご覧いただきたい(ただし、アブストラクトはだいぶ事前に集めたものなので、異同は少なくないことをご了承ください)。
15日のオープニングに続いて、16日のセッション1では、「Thresholds of the Present(現在の閾)」というテーマで近藤学さん(UTCP)を司会に迎え、20世紀美術において「過去/現在/未来」を分ける閾の拡張可能性や政治的操作について3つの発表が行われた。トップバッターの Jenny Lee さん(NYU)の発表「The Conditional Future: Notes on Cultural Revolution in Contemporary Chinese Art」は、蔡國強による1965年の社会主義リアリズムの彫刻《Rent Collection Courtyard》の再制作における、文化大革命と資本主義市場とのつながりについて論じた。次に報告者である私、荒川徹は「Cézanne, Smithson and the Limitless Scale of the Present」という題で、ロバート・スミッソンの作品と彼のテクストによって、セザンヌの《ジュールダンの小屋》(1906)を分析し、複数のスケールからなる時間的形態論を呈示する発表を行った。河村彩さん(東京大学)の「Present Life as the Socialist Future: The Image of Workers in Soviet Photo-Essays」は、1920-30年代のソヴィエト写真エッセーにおいて呈示された労働者の現在の生活が、いかに社会主義的に理想化された未来を同時に表象していたかを示した。

session2a.jpg

セッション2「Translations of Time(時間の翻訳)」は、呉燕さん(東京大学)を司会に迎え、近代文学における翻訳と暦の改変とを重ね合わせ、ギャップのなかに時間を浮かび上がらせる3つの発表が行われた。Pu Wang さん(NYU)による「Lu Xun and the Re-periodization of the Present: From the Prose Poem ‘Hope’ to the Polemic of ‘Hard Translation’」は、魯迅の散文詩『希望』に描かれた空虚な「現在」を、魯迅後期のラディカルに政治的な主体性へといかに「再-時代区分 Re-periodization」したかを提示した。Son Sung-Jun さん(成均館大学校)の「Translation, and Creation of Originality: The aspect and the character of adoption in East Asia regarding The Biography of Madame Roland」は、『ロラン夫人伝』の日本-中国-韓国における翻訳とそのギャップを詳細に検討し、翻訳空間においていかに新たなオリジナリティーの創出が行われたかを明らかにした。諫早庸一さん(東京大学)による「Migrating Time: The Transition of Time Conceptions by the Mongols across Thirteenth Century Eurasia」は、13世紀のモンゴルが異なる時間観念をもつ中国やイスラム世界に接してどのような決断を行ったかという、時間・暦における文明化のダイナミクスを描き出した。

session3a.jpg

セッション3「Origins of Modernity(モダニティーの起源)」は、中島隆博氏(UTCP)を司会に迎え、中国やアルジェリアといった地域におけるモダニティーの交錯した多元性に焦点を当てた。Chunling Peng さん(北京大学)の「The Division and Merging of Kang Youwei and Liang Qichao’s Thoughts Whether Confucianism Fit for the New Citizen」は、康有為(1858-1927)とその生徒、梁啓超(1873-1929)による新たな市民のための儒教において、その相違と収斂を見出すことにより清朝後期の多様な文化的変容を浮かび上がらせた。Yu Zhu さん(華東師範大学)による「The Politics of ‘The Rectification of Names’: A Brief Observation on Liu Shi-pei’s Thinking of ‘the Rectification of Names’ and the Relevant Problematic of Chinese Modernity」は、劉師培(1884-1919)の正名論に焦点を当て、先の発表と同じく清朝後期における言語・政治・モダニティーの交錯した関係を描出した。Yu Xue さん(華東師範大学)による「From “Qiganyuan” to “Mediation Committee”: Ethics and Governance in Sanliwan」は、趙樹理の小説『三里湾』(1955)において、革命と「家族 family」の概念によってつくられる農村世界のつながりをいかに創造しようとしたかを分析した。Beata Potocki さん(ニューヨーク大学)の「Intractable Present: Two Visions of Modernity in the Algerian Novel」は、カテブ・ヤシーネ『ネジュマ』(1956)とラシッド・ブージェドラ『離縁』(1967)というアルジェリア文学の2つの小説において、起源への回帰とラディカルな開始という異なったモダニティーのヴィジョンが刻印されていることを明らかにした。

session4a.jpg

セッション4「Rhythms in Passing(過ぎ去るもののリズム)」は、Pau Pitarch Fernàndez さん(東京大学)を司会に迎え、空間論と時間論が不可避的に結合するような特定のある場所に、空間それ自体がもつリズムを見出す試みである。Christophe Thouny さん(ニューヨーク大学)の「Dwelling in Passing in Tayama Katai’s Kinkô」は、田山花袋『東京の近郊』(1916)における「近郊 near-suburb」という空間を、中心としての都会と住まう所としての郊外の双方を併せ持つ、過渡的な社会空間として分析した。宇野瑞木さん(東京大学)の「The Binding of Historical and Cosmic Time in Eastern Han Family Tombs」は、東漢の墓に描かれたモチーフにおいて、線的時間と円環的時間がいかに結合されていたかを明らかにした。米田尚輝さんの(日本学術振興会)「The Sources of Art Nouveau and the Perception of Order」は、アール・ヌーヴォーにおける装飾の造形的なソースを検討し、いかに生命形態への回帰が標榜されていたかを検討した。最後、Lei Ping さんの(ニューヨーク大学)「Distinction of Spaces—Ruins of Longtang Life in post-Haussmannized Shanghai」は、上海の弄堂と呼ばれる路地の廃墟を、中産階級の日常生活の空間的アレゴリーとして描き出した。

session5a.jpg

セッション5「Ages of Emergency(非常事態の時代)」は、Naveh Frumer さん(UTCP)を司会に迎え、政治的状況が形成する時間-時代の問題を扱った発表を集めた。Max Ward さん(ニューヨーク大学)の「The Logic of Ambiguity: The Japanese Peace Preservation Law and the Category of Kokutai」は、1925年の治安維持法とその保護対象である「国体」の概念における曖昧さの問題を、カール・シュミットの議論などを援用しながら論じた。Lim Tae-hun さん(成均館大学校)の「Threat and coexistence - Essay on Jang Hyeok-Ju’s Threat」は、張赫宙の小説「脅迫」(1953)が描き出した占領下の日本における、国家とアイデンティティーの関係を分析した。Zhuo Liu さんの(ニューヨーク大学)「Mao's conception of “Present” in the Chinese Civil War period (1945-1949)」は、「現在」の概念に焦点を当て、毛沢東の歴史思想とヴァルター・ベンヤミンの歴史概念を突き合わせる考察を行った。

session6a.jpg

セッション6では、司会にThomas Looser 教授(ニューヨーク大学)を迎え、ずばりヴァルター・ベンヤミンの概念である「Dialectical Images(弁証法的イメージ)」を冠し、イメージの時間的複層性や弁証法的性格について論じた発表を集めることとなった。Sage Anderson さん(ニューヨーク大学)による「A Child’s Presents: Temporality Objectified in Benjamin’s Berlin Childhood around 1900」は、ベンヤミンの「1900年頃のベルリンの幼年時代」 および「プルーストのイメージについて」を対象に、幼年期の経験における時間的多層性を分析した。Phil Kaffen さん(ニューヨーク大学)の「The Time of Violence and the End of Movement」は、イメージと暴力の関係を時間が媒介する方法をジャン=リュック・ナンシーらのテクストにおいて検討しながら、映画的暴力が運動の不在にこそあるというテーゼを導き出した。Oh Younjung さん(南カリフォルニア大学/東京大学)の「The Abandoned Theme Park: The ‘Dialectical Image’ of Capitalist Dream World」は、テーマパークの廃墟というイメージを『千と千尋の神隠し』(2001)などの作品に見出し、資本主義的夢世界における弁証法的イメージとして分析した。

keynotea.jpg

2日間のセッションを締めくくるキーノート・スピーチは、張旭東教授(ニューヨーク大学)による「The Politics of the Universal」である。ハート/ネグリの『帝国』(2000)を批判的に検証しながら、一般化・均質化の力からわれわれが取り戻さなくてはならない「plural present」にも言及しながら展開していただいた。

このカンファレンスの開催までには多くの時間と労力を要し、またその途中ではいくつもの困難があった。だが、すばらしいスタッフとその協力のおかげで、ひろがりと厚みをもつ、とても充実したカンファレンスとなったと感じている。もっと時間があれば、セッションの枠を越え、討議のセクションを設けることができればさらに良かったと思う。とにかく、そのような展開を自然に示唆するような議論の連なりがあったことは確かであり、テーマ設定の責任者としてたいへん嬉しかった。

いくつかの発表は、過ぎ去った時代とわれわれの現代との、距離をもった秘かなつながりについて論じていたが、わたしが「plural present」という名のもとで考えたかったのも、われわれを遥かに超えた、過ぎ去る時間の力を感じとることを可能にするための方法論にほかならない。知的認識のみではなく、それを通じてわれわれの日常において複数の時間的層を見出し経験や行動を新しくするようなプログラムこそを求めていた。わたしを含め Oh Younjung さんや Lei Ping さんの発表が問題とした「廃墟」は、まさにそのような時間感覚の変成を可能にする場所にほかならない。荒ら屋にしばしば生い茂る草木には、崩壊と成長という時間作用が交錯し、歴史と自然が渦を巻いている。われわれはそこに、みずからのように過ぎ行くものへの悲哀だけでなく、来るものへのよろこびともいえるような何かをも、不分明のままに見出すだろう(Christophe Thouny さんの発表は、田山花袋のテクストにおける江戸の四宿という空間に感情の渦を見出していた)。時間のスパイラルが生みだす、われわれがいままで莫大な時間の流れにあって、これからもあり続けるという感覚は、単純化を要請する認識の殻を貫いて、われわれをねじり打つ。人間が歴史的時間のなかで位置するポジションとは、現在という一点であるどころか、流体のようでもあるたえまない動きであるだろう。今回のカンファレンスから生まれた動くネットワークを、着実に育んでいこうと思う。

報告:荒川徹

plural_group.jpg

Recent Entries


  • HOME>
    • ブログ>
      • 【報告】UTCP Graduate Conference "The Plural Present of Historical Life"
↑ページの先頭へ