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他者からの取材――人文学にとって現場とは何か

2009.06.29 西山雄二, 来訪

夏の暑気が感じられる六月末の午後、「ル・モンド・ディプロマティーク」などに寄稿するフランス人ジャーナリスト、エミリー・ギヨネ(Emilie Guyonnet)さんの取材を受けた。

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ギヨネさんは日米軍事同盟の問題や日本の戦争の記憶に関する丹念な取材で「ロベール・ギラン日本報道賞」を受賞している若きジャーナリストだ。今回の滞在目的は、日本の高等教育改革と新しい労働運動の隆盛に関する取材のためである。日本語を話せない彼女がどんな仕方で取材をおこなうのか、私としては、そのこと自体に興味をそそられた。

二日間の取材日程の準備に協力し、東京大学(私)と早稲田大学(岡山茂氏)、高円寺の素人の乱(白石嘉治氏)を取材するようにコーディネイトした。私の取材では、大学改革一般から、グローバルCOE政策、大学院生や学生の貧困問題などに話が及んだ。その後、高円寺に場所を移して、素人の乱のショップが並ぶ商店街を散策した。

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人文学研究者は広義での「他者への取材」には慣れている。図書館や資料室で必要な文献を探し求め、フィールドワークをおこなって情報を収集し、関係者に会って必要な話を伺う。ただ、他者からの取材を受け、現場を提示する能力についてはどうだろうか。

自分が取り組むやや抽象的な研究主題に関して、人文学研究者はいかなる現場を示すことができるだろうか。例えば、「ジャック・デリダの脱構築」「ミシェル・フーコーの権力論」「エマニュエル・レヴィナスの他者論」といった主題に対して、私は身のまわりでどんな「現場」を思い浮かべるだろうか。

娯楽映画の熱血刑事のように、「事件は会議室で起きているわけじゃない、まさに現場で起きているんだ」と放言したいわけではない。ただしかし、潜在的な仕方で何らかの現場を想像し、他者に伝えようとすることによってこそ、人文学研究にある種のアクチャリティが宿るのではないだろうか。他者からの取材で感じた私的雑感である。

(文責:西山雄二)

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