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【報告】「哲学と大学―大学において私たちは何を希望することを許されているのか」

2009.04.18 └哲学と大学, 西山雄二

2009年4月16日、ジュンク堂書店新宿店にて、『UTCP叢書3 哲学と大学』(未來社)の刊行記念トークイベント「哲学と大学―大学において私たちは何を希望することを許されているのか」が実施され、熊野純彦(東京大学)と西山雄二(UTCP)が登壇した。

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まず、編者・西山の方から、個人的な大学の経験と『哲学と大学』の趣旨説明がおこなわれた。大学の経験は各人多様であり、とりわけここ10年間の高等教育改革のなかで、各々の大学経験は著しく異なることだろう。西山は自身の経験を辿りつつ、独立行政法人化への布石として、1998年に一橋大学において学長選挙での学生の拒否権が廃止されたことを「大学の危機」として、また、フランス留学中に2004年に目の当たりにした、管理ポストの集団辞職を賭けて研究者たちの「研究を救おう!」運動が政府に異議申し立てをしたことを「大学の抵抗」として回想した。そして、現在、UTCPの活動を通じて、学部や学科を横断する国際的な研究教育体制の創出に従事していることを「大学の創造」と形容した。

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論集『哲学と大学』はUTCPの共同研究の成果である。ここで問題となるのは、近代における哲学と大学の関係である。少なくともカント以降、哲学は大学の諸学問の宇宙を統括する理性の批判的活動の拠点とみなされてきた。しかし同時に、哲学は大学の一部門でしかない。つまり、大学のなかで他律的に限定される哲学が、しかし、大学の全体を自律的に統括するという二重の規定性が問われるのである。哲学者たちが大学論を執筆してきたのは、哲学による真理探究が大学という制度に妥当であるのかどうかを確かめるためである。本論集が描き出しているのは、理性の自律的かつ他律的な制度化を構想しつつ、大学に期待し、あるいは失望してきた哲学者のドラマである。

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これに対して、熊野は、大学のなかで管理運営の役目を負わされるなかで、大学や人文学、哲学の今日的使命とは何かと「現実的に」自問しているけれども、しかし、今日は「若干の夢を含んだ形で」西山に応答したい、と対話の口火を切った。この『哲学と大学』はその主題設定からにして、肯定的な意味で、実に「浮世離れした」論集である。大学の現実的な危機を思考するためには、いま不在であるかもしれない理念を多様な仕方で語る必要があるのだ。

現在の大学は「工学部的なもの」が制覇しているのではないだろうか。しかし、人文学もまた、理念を語るだけでなく、人文学の現実的な有用性をいじましくも公言し続けなければならない。現実的な後退戦を放棄することなく、これを貫かなければならない。なぜなら、そうしなければ、後続する若い世代の研究者が根絶やしになるだろうからだ。その際、注意しなければならないのは、有用性の価値を軽んじることなく、哲学的な思考に基づいて有用/無用の二分法を批判的に問い直すことである。つまり、有用/無用を単純な二分法で語ることを留保しつつ、両者の錯綜した継ぎ目を繊細な表現で語ることが必要なのだ。

また、この論集は「哲学と大学」を対象としているが、各々の論考はさらに国家との関係をも問うている。つまり、国家のなかに大学があることの意味、そして同時に、国家の枠組みに収斂しえない大学の存在意義を問うているのだ。

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歴史的に反復される大学の危機

西山:「今日の大学がかつてない危機に曝されている」というけれども、実は、歴史的にみて、大学はつねに危機的な状況を経験してきた。中世の大学が確立する過程の苦難、17世紀における大学とアカデミーの対立、18世紀における啓蒙主義者による大学への非難、ナポレオン戦争によるプロイセンの多数の大学の閉鎖、ナチス・ドイツによる大学の道義的破壊、1960年代の大学教育のマスプロ化など、大学はつねに危機に曝されてきたのだった。それゆえ、重要なことは、こうした歴史的危機を考慮しつつ、今日の大学の危機がいかなるものかを分析することである。

大学において人文学および哲学とは何か

西山:人文学は独特の速度をもっている。基本的に人文学はひたすらテクストを読み、思考するという愚直な営みである。しかも、テクストは様々な言語表現から成っている。それゆえ、人文学とは、異なる言語表現に即して、読解し思考することで、他者を受け入れようとする倫理的な訓練なのである。哲学がもつ独特の速度がこうした営みを可能としているのである。

熊野:哲学は大学の諸学問には収まりきらない、人文学一般には吸収できない何かを抱えているのではないか。情報や知識を伝達するだけではなく、何か過剰なものを生み出す営みではないだろうか。

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大学と旅

西山:研究教育の機会を得るために、なぜ大学という場所が必要なのだろうか。そもそも、12世紀に教師の同業組合から生まれた大学(universitasは「組合・結社」の意味)は専用の建物を所有せず、教会や修道院のなかで授業がおこなわれた。また、少なくとも15世紀になるまで、教師と学徒の群れそのものが引っ越しを厭わなかった。大学はキャンパスという閉域のなかで動かない「象牙の塔」ではなく、逆に固有の場所とは結びつかず、つねに移動する運動体だった。ヨーロッパのさまざまな知性が集合し流動し、大学はつねに旅の途上にあった。それゆえ、大学のなかで個々人が真理探究の旅に出ること、さらに言えば、大学そのものが旅に出ているという雰囲気が必要である。とくに行先のない放浪ではなく、保守するべき場所をもちつつ学問的探求を通じて旅路についていることが。

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大学において私たちは何を希望することを許されているのか

熊野:「あなたの研究は何の役に立つのか」と聞かれて、おそらく、ほとんどの人文学研究者はこう答えるだろう――「えっ! そんなこと、考えたこともありませんでした!」、と。例えば、『源氏物語』の研究者は自らの研究の価値を信じているだろうし、『旧約聖書』の研究者は『旧約聖書』が人類史上の最重要のテクストであることを疑わないだろう。そして、そうした信を抱いているからこそ、他者の研究に対して敬意をもつことができるのだ。逆に言うと、有用性の過剰な論理によって蔑ろにされるのはこうした他者への敬意である。かくして、大学においては、有用/無用の尺度を越えて、研究教育に没頭する他者への無条件的な敬意を洗練させることが許されているのだ。しかも、実社会において不利になるにもかかわらず、若い世代の人文学研究者が後を絶たず、ゼロにはならないこともまた大学の希望である。

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西山:今回の論集に水月昭道さんに高学歴ワーキングプアの論考を寄せていただいたことは大きな収穫でした。実は、私も、博士論文を書き終えた後で、大学のなかで何の身分もなくなり、たんなるフリーターになる恐れがありました。自分でも驚いたのですが、その時、大学や大学関係者を激しく憎悪しました。長年授業料を払い、博士論文に労力を注ぎ、その結果が社会のなかにフリーターとして放り出されるということなのか、と絶望し激怒してしまったのです。そしてそのとき、逆説的にも、自分がいかに研究教育を愛しているのか、大切にしてきたのかを悟りました。いわば、研究教育をめぐって、愛情と憎悪の空虚な境界線の上に立たされたのです。

しかしながら、しばし考えて、「人文系研究者でよかった」という深い実感に到達しました。人文学とは、それぞれの個的実存が世界と衝突することで生み出された生の過剰さ=作品を研究する学問分野です。だとすれば、自分が置かれたこの境遇を、人文学研究者として、直接ではないにしろ、間接的な仕方で探究することを許されていることになります。それは、人文学研究者であることのきわめて慎ましやかな幸福でしょう。これは、カントが言う哲学部の「慎ましさ」、デリダが言う大学に認められるべき「無条件性の弱さ」にも通じる何かであるような気がします。虚無のなかで、大学における希望として残されたのは、こうした独特の幸福を信じることでした。

   メフィストフェレス「沈みなさい。登りなさいとも言えますがねえ。
   どちらでも同じことなんですから。」――ゲーテ『ファウスト』

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ジュンク堂書店・阪根氏の報告ブログ ⇒ こちら

(今回のイベントを企画・準備していただいた、ジュンク堂書店の阪根正行氏、未來社の高橋裕貴氏には深く感謝いたします。)

(文責:西山雄二)

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