【UTCP on the Road】 遠くへ (藤田尚志)
人にはそれぞれ思考の原風景とでも言うべきものがあると思う。「満足いくものが書けたとき、そこには風景が見える。自分の書いたものの中に風景が見えるか、見えるとすればそれはどんな風景なのだろうか」――「哲学と教育」の第3回フォーラムに参加すべく乗り込んだパリ行きの飛行機の中で、西山雄二さんと長時間話した中で一番心に残っている言葉だ。彼の答えは、「誰かに手を差し出している風景かな。『握手をしよう』って」というものだった。これはとても彼らしい答えだ。以来何となく考えてみた。「私は?」
たぶん旅立つ風景だ。空港や駅、大学でもいい。人が慌ただしく行き交う場。そこに独りで佇み、どこかへ出発するのを待っている。若干の期待と若干の寂寥。遠くへ、さらに遠くへ――私の書いたものを読む人がどう思うかは分からないが、少なくともそれが、私が仕事をしているときに根底にある気分(Stimmung)であるような気がする。
それはハイデガー的なノスタルジーとはおそらく違う。彼はノヴァーリスに倣って哲学することの根本気分を「郷愁」と呼んだが、私にとっては世界の中にいること(世界内存在)が問題なのではないし、「随所に家に居るように居たいと欲する衝動」に駆られて有限性や単独化を問い続けることが問題なのでもないからだ。
そうではなく、「閾 Seuil」にいること――私の専門で言えばフランス哲学・思想研究と他の諸科学・諸領域との間にいて、世界のどこかからどこかへ、常にどこかへの途上にあり(on the road)、常に待機中で=何かを期待しているような(en attente)、そんな気分である。連載第一回目の郷原佳以さんに倣って「開かれて繋がる」と言ってもいいし、ドゥルーズに倣って、動詞EST(~である)でなく、接続詞ET(~、そして~)で言い表される何かだと言ってもいい。
UTCPはESTなのかETなのか?UTCPは「家郷」、あるいは郷愁によってそのように変じられるべき存在なのか、それとも途上(milieu)そのものだろうか?黄疸を病む人には世界が黄色に見えるからかもしれないが、ほんの数回イベントに参加して議論を交わしたにすぎない私とUTCPが「遠く」の関係にあったというだけでなく、UTCPという場所あるいは制度そのものが、「遠くへ、さらに遠くへ」という気分を体現しているのではないのか。むろん、この絶えず回帰してくる問いにそのつど決着をつけるのは、現在UTCPを構成するお一人お一人である。
「UTCP on the road」とはおそらく「UTCP on my road」の意味で付けられたタイトルなのだと思うが、そういうわけで「UTCP is the “on the road”.」とでも言っておきたい。UTCPを離れるにあたって「UTCPの感想、可能性、批判など自由に」と言われたが、これで責を果たしたことになるだろうか。感想も可能性も、そして批判も入れたつもりである。
最後に、UTCP関係者の皆様、一年間いろいろとお世話になり、ありがとうございました。
藤田尚志
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