【報告】ヴィクトル・I・ストイキツァ「カラヴァッジョの天使たち」
2009年2月27日、美術史家ヴィクトル・I・ストイキツァ氏による講演「カラヴァッジョの天使たち」が行われた。コメンテーターにはストイキツァ氏と共同作業を続けている、アンナ・マリア・コデルク氏を迎えた。カラヴァッジョが1592-1602年に制作した作品群における天使の表象に注目し、そこにある現実性と聖なるものが結ぶ特殊な関係を問う試みである。
カラヴァッジョは、自然に従うことを自らの格率としたといわれるレアリスムの画家である。しかし、そのような現実性の絵画において、(彼岸の世界から到来する)天使はいかなる位置を占めるのか。ストイキツァ氏は本講演で、天使表象における自然的なものと超自然的なものが展開する本質的なパラドクスを、雲・影・モデルといった様々な角度から分析してみせる。
天使の分析は、《イサクの犠牲》(1594-1596年)をもって始まる。このタブローでは、天使の身体は枠に切り取られてほとんど見えないものの、強烈な存在感を持って、表象世界の外部から画面内に侵入してきている。天使が二つの世界に現れるという同時遍在性、それが最初のパラドクスを織り成す。その問題は、《聖マタイの殉教》(1599-1600年)において、天使が「雲」を通じて現れるという事態を呈する。雲は天と地のあいだの「象徴的膜壁」の役割を演じ、現実の二つの階層の配置を可能にする要素である。カラッチの伝統にあるバロック絵画の二層的構造において、雲は重要な役割を果たしていた。カラヴァッジョは、そのような趣味に妥協したのだろうか。
しかし、ストイキツァ氏が注目するのは、カラッチらとの対話ではなく、ティツィアーノの《殉教者聖ペテロの死》(1526-1530年、焼失)をソースとした可能性である。カラヴァッジョはティツィアーノの空間を圧縮する。天使からマタイに、殉教の褒賞である〈棕櫚〉がほとんど手渡されようとしている緊張こそをカラヴァッジョは表現している。ここでの表象のパラドクスは、死による消失の瞬間にのみ棕櫚の授与が起こるということである。ストイキツァ氏はここに、バロック的二重性への譲歩ではなく、現実のさまざまなレベルを圧縮する最初の経験を読み取るのである。
次に、同じコンタレッリ礼拝堂の《聖マタイと天使》(1602年)の二つのヴァージョンに注目する。消失した第一作では、「口述」という伝統に反し、書いている聖人の手に天使が直接触れて導いているのである。ここでストイキツァ氏の眼は、マタイの茫然自失の眼差しに向かう。マタイはいったい何に驚いているのか。『影の歴史』(邦訳:白水社、2008年)を著したことでも有名なストイキツァ氏は、天使の手がはっきりと投げかける影に注目する。非現実性を示す雲とは異なり、影は現前と現実の記号であるため、ふつう聖霊には影はない。この影は、茫然自失に値する境界の超越こそを示しているのだ。
第二作では天使とマタイの親密さは失われたが、天使はなんと身振りによって言語を伝えている。ストイキツァ氏による比較の焦点は、マニエリスム的な第一作の理想的天使と、シーツを巻き付けたかのような第二作の天使との差異に向かい、実際のアトリエ制作におけるモデル選定や衣裳に着目する。第二作と《ダヴィデとゴリアテ》では同じモデルを使用していたが、《聖フランチェスコの法悦》と《いかさま師》などでは、聖俗の目的を異にする登場人物にまで用いられている。このような偏見の不在、同一モデルにおける聖俗の交替は、《いかさま師》で当のいかさまをしている人物と《エジプト逃避途上の休息》(1594-96年)の天使の同一モデルという例において極度の振幅を示すだろう。
《エジプト逃避》の天使では、ストイキツァ氏の焦点は視覚的なものを通じて音楽へと向かう。写実的で薄暗い様式で描かれた画面左で楽譜を広げるヨセフ、中央で天使が音楽を奏で、画面右では柔和で明るく描かれた、子を抱くマリアが位置している。音楽史家の研究による描かれた楽譜の解読によれば、その曲は聖母を讃えるモテットのカントゥス・フィルムス(定旋律:多声音楽で使用される既存の旋律)であることが判明した。ストイキツァ氏はこの作品を、現実と聖性との関係が旋律の形をとって呈示されたアレゴリーとして読む。その旋律は、微風のように軽やかな天使の主軸を取り囲む両極を結びつける。われわれが旋律に耳を澄ますのは、タブローから発せられるひとつの命令なのだ。そして、音楽が実際に演奏された録音をスライドの最後に上演することで、講演は幕を閉じた。
刺激的でありながら歴史的な抑制にも満ちたこの講演で展開された、タブロー・テクスト・音楽など、問題を介して多様な資料を自在に横断していくストイキツァ氏の方法論は、本質的にマルチモーダルなアプローチだといえるだろう。イメージの連関に圧縮された複数のモードを同時に作動させること──そのような役割こそを、カラヴァッジョの天使たちが果たしていたからだ。それは単に画面に描かれた現実と聖性の媒介のイメージというより、表象世界と現実をそのつど取り結び、解き放つためのエージェントのような──文字通り例外的な存在なのである。そのような存在として天使を発動させることは、経験において過去と現在をつなぐタブローの媒介力を甦らせるということでもある。記述や解釈の束には留まらない、まさに何世紀も前の楽譜から調べを甦らせるような〈再演〉としての美術史の方法論──それこそがストイキツァ氏が講演の最後で「奏でた」音楽であったのかもしれない。(報告:荒川徹)