【報告】「多層・多様・多元」に向けて―中期教育プログラム報告会(2008年度冬学期)
UTCPでは現在,4つの中期教育プログラム「脳科学と倫理」「時代と無意識」「哲学としての現代中国」「世俗化・宗教・国家」が同時に進行しています.2009年2月18日,この4つの中期教育プログラム合同で中間報告会を開催しました.タイトルは「多層・多様・多元」に向けて,です.
「多層・多様・多元」とはUTCPのスローガンのひとつと言えるでしょう.世界は急速にグローバル化している,とはよく聞きますが,それだけ聞いてもどこか空虚な感じが否めません.しかし,今年度のUTCPは哲学におけるグローバル化を実感できる場になったのではないかと思います.これまで哲学というと西洋一極集中というイメージがあったかもしれませんが,昨今の哲学的議論は世界各地が網の目のように結ばれたネットワークのなかで相互作用しながら同時多発的に沸き起こっています.2008年冬学期のUTCPの取り組みだけを抜き出しても,韓国で,中国で,フランスで,アメリカで,カナダで,イギリスで,アルゼンチンでと,哲学的議論が世界各地から発信される現場を見ることができます.こうした世界各地の哲学的議論が相互作用し,それによって現代の哲学的潮流という大きなひとつのまとまり(「うねり」とでも表現したいような時々刻々と変化する大きなまとまり)ができあがっているのでしょう.「多層・多様・多元」とはこうした現在の哲学的潮流を指し示す言葉に他なりません.
UTCPの内部に4つの中期教育プログラムが同時にあることは,こうした「多層・多様・多元」という現在の哲学的潮流を反映しています.4つのUTCP中期教育プログラムはそれぞれに固有の専門化されたテーマを扱っているわけですが,しかしながらそれら4つは完全に分断されたものではなく,相互作用しながら大きなまとまりを形作っています.
今回の中期教育プログラム報告会(2008年度冬学期)では,4つのプログラムがそれぞれ1時間ずつの発表を行いました.以下,4つのプログラムのプレゼンテーションをまとめます.
脳科学と倫理
中期教育プログラム「脳科学と倫理」では現代の脳神経科学の発展によって新たに生じる倫理的問題を考察しています.
とりわけ,エンハンスメント(治療を超えた介入的増強)にまつわる論争に私たちは大きな関心を払っており,エンハンスメントを脳神経倫理学の中心問題のひとつと捉えています.吉田敬さん(PD研究員)は「認知的エンハンスメントと公平性」というタイトルで,脳神経科学の発展がもたらしうる影の部分にあえて光をあてる議論を展開しました.エンハンスメント技術によって記憶力を高めたりすることは一見,私たちの生活をより豊かにし,より幸せな人生を可能にさせるように思われます.そして,そうしたエンハンスメント技術を享受する自由を私たちは持っていると思われでしょう.しかし,吉田さんはこうしたエンハンスメント自由主義がかえってわれわれに不自由をもたらすと指摘します.だれもがエンハンスメントをして記憶力を高めるような社会になってしまったら,自分だけエンハンスメントをしないという選択肢を採ることはありえない.少なくとも,エンハンスメントをしないという選択肢を採ることはわれわれに不利益をもたらします.エンハンスメントの自由がいつのまにかエンハンスメントの強制に変わってしまうのです.
脳神経倫理学には,このように脳神経科学が引き起こす倫理的問題を扱う方向がある一方で,倫理・道徳を脳神経科学によって説明していこうとする方向もあります.中尾麻伊香さん(RA研究員)は2008年冬学期のゼミで輪読したM・ハウザーのMoral Mindsを紹介しました.タイトルは「M. ハウザーにおける進化理論と道徳性」です.ハウザーの試みはわれわれの道徳能力を言語能力とパラレルに,進化の過程で得られた生得的な能力と捉えなおすことなのだと中尾さんはまとめます.中尾さんは発表の最後に道徳能力は生得的に人間に備わっているからこそ,人間の相互理解の可能性が開かれているのだと,人間の「共生」の可能性を論じました.
(ここまで: 中澤栄輔)
時代と無意識
中期教育プログラム「時代と無意識」の報告では、桑田光平と森田 團がそれぞれバルトとタウベスについて発表した。
桑田光平「ロラン・バルトにおける回帰する眼差し」は、1953-54年に書かれたバルトのテクストから、物に意味を付与する眼差しと、無意味に描写する眼差しという二つのモードを抽出し、その後彼のテクストにおいて変奏されたその問題が、1977年に改めて回帰した時に被った変容を問うた。そこではもはや意味/無意味という記号論的区分ではなく、眼差しそれ自体への問いが、人物の正面写真を多く扱った『明るい部屋』において現れている。それは、バルト自身の存在が批評家から小説家へと(あたかも)変容することを示していたのである。
森田 團の発表では、『西洋の終末論』におけるタウベスの「終わりの時 Endzeit」の概念が話題の中心に据えられ、この時間が、過去でも未来でもなく、現在に設定されていること、いまここに終わりをもたらす直前の時間こそが終末論において本質的に問題となっていることを指摘した。タウベスにとっては、この終わりの時こそが世界を異郷として認識することの条件となっていたのであり、それが終末論を維持する大きな意義のひとつだったのである。最終的には、終わりの時の時間性が、時の完成[Vollendung]との関係で論じられていることから、それが永遠と過ぎ去り(あるいははかなさ)の関係―完成によって時は永遠に移行し、また移行によって時は過ぎ去るからである―のうちに捉えられねばならないことが最後に示唆された。
(報告: 荒川徹・森田 團)
哲学としての現代中国
中記教育プログラム「哲学としての現代中国」からは、宇野瑞木、井戸美里、喬志航、高榮蘭の4名が、「東アジアにおける国家の諸相」というテーマのもとそれぞれ発表を行った。
宇野瑞木は、「東アジアの国家と孝――後漢の地方豪族の墓を一例として」と題して、後漢の豪族統治の様相を、山東地方の豪族武氏の墓に表象された孝の二面性、すなわち儒教的図像と民間信仰的図像の交錯する構成を分析する中で明らかにしようと試みた。
次いで、井戸美里は、「中世美術と国家の境界性」というテーマで、中世の「日本」における「国家」の多様性や境界性について考察した。その一例として、《四季耕作図屏風》(山口県伝来)に描かれる「和」「漢」混在の現実には存在しえない風景は、当時朝鮮半島の窓口であった中国地方や瀬戸内地域において生み出された「国家」の境界を超えた理想郷である可能性について述べた。
喬志航は「国家と無国家」というテーマのもと考察を行った。清末の思想家たちは、中国を近代的な国民国家に作り上げてゆくという課題に取り組む一方、国家権力を根拠のない支配として捉え、国民国家を超える「新しい世界」を作ろうとする理想をも持っていた。その思想的葛藤を考察した。
高榮蘭は、「「国家」をめぐる暴力の記憶―2000年代の日本語小説を手がかりに」と題し、
2008年8月10日、朝日新聞の朝刊に掲載された『文藝春秋』の全面広告に注目した。それは、芥川賞受賞作である楊逸の『時が滲む朝』の掲載を大々的に宣伝するものであった。この広告の構成や、楊逸をめぐる評価を手がかりとしながら、2000年代に刊行された現代小説に見られる装置としての「暴力」の記憶、そして内向きの時間軸の問題について論じた。
(報告: 井戸美里)
世俗化・宗教・国家
今回の中間報告会,中期教育プログラム「世俗化・宗教・国家」は今年度の活動を総括し、企画中の来年度の予定を紹介した。
最初に諫早洋一(RA研究員)が、今年度招聘したジャン・ボベロの世俗化論を手がかりに「世俗化・宗教・国家」プログラムの総括を行った。諫早は、ボベロの世俗化論を正統的な「世俗化論」と宗教復興以後に現れた脱世俗化論の双方を批判するものと位置づける。一方で、宗教復興、特にイスラーム主義のナショナリズム的側面を強調するボベロの見解と、イスラーム主義をナショナリズムの一形態と見なすことに対するタラル・アサドの疑義に言及し、宗教復興を再考するうえで国家の役割に着目する必要性を指摘した。
続いて内藤まりこ(RA研究員)は、近代文学に着目し、そこにあらわれる信仰の様態、特に社会における死者の位置づけについて考察することを課題として示す。そのうえで、来年度はヘレン・ハーデカー(ハーバード大学)を招聘し、死者と共同体、国家と宗教との関係について考察を深めていく予定であることを報告した。
最後に澤井一彰(PD研究員)が、現代の世俗化状況への理解をより深めるうえで、中東の世俗化大国(とみなされている)・トルコの重要性を指摘した。そこで、トルコの世俗化について研究しているハルドゥン・ギュラルプ(ユルドゥズ工科大学)を招聘する計画を披瀝した。
(報告: 勝沼聡)