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【報告】ワークショップ「レオ・シュトラウスのアクチュアリティ」

2008.12.26 └歴史哲学の起源, 國分功一郎, 大竹弘二, 時代と無意識

10月29日(水)、UTCPワークショップ「レオ・シュトラウスのアクチュアリティ」が、明治大学の合田正人氏をコメンテーターに迎え、開催された。

ワークショップでは、國分功一郎(高崎経済大学・UTCP共同研究員)と大竹弘二(UTCP研究員)による『思想』10月号(「レオ・シュトラウスの思想」)への寄稿論文に基づく発表がまず行われ、合田正人氏のコメントならびに質問を受けたのちに、シュトラウス思想のさまざまな問題点が議論されることとなった。

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大竹の発表は、シュトラウスがアメリカに亡命する以前の1910年代から30年代半ばまでの思想的営為に焦点を絞り、近代リベラリズム批判の処方としての古代ギリシアへの回帰というよく知られた後期の立場だけではなく、ユダヤ思想への沈潜が、シュトラウス哲学を根本的に規定していることを初期の著作に幅広く目を配りながら明らかにした。大竹によれば、後期思想においては後景に退くにもかかわらず、シュトラウスにとって「アテナイとエルサレム」、ないし「理性と啓示」の対立は、依然として近代リベラリズム批判の可能性として大きな問題であり続けた。しかし、結局シュトラウスは二つの立場のどちらかを選びとることはなかったのである。大竹は、この未決性についての評価にまでは踏み込まなかったが、今後の研究の進展のうちで答えられることになるに違いない。

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國分の発表は、シュトラウスの『自然法と歴史』、ならびにドゥルーズの哲学――彼はシュトラウスを『スピノザと表現の問題』で参照している――をめぐるものだった。國分は、シュトラウスの哲学の根本的立場として、自然の発見こそが哲学のはじまりであり、かつ哲学固有の問題――シュトラウスにとってそれは政治哲学固有の問題に等しかった――は、この発見のうちにすでに内蔵されていることを強調した。國分によれば、このシュトラウスの立場をドゥルーズもまた共有している。シュトラウスとドゥルーズという政治的立場も哲学的立場も懸け離れた哲学者が交叉する点を指示することによって、國分は、自然と人為、ミュトスとロゴスという二項対立についての解釈が、それぞれの哲学の体制を規定していることを明示し、ドゥルーズの自然解釈にシュトラウス哲学への応答を読み込み、哲学に何がなしうるかという問い――とりわけ政治と権力との関係をめぐる哲学との関係において――をさらに準備することとなった。

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合田氏のコメントは、二人の発表のさまざまな論点にわたった。まず思想史的な関係として、スピノザ、メンデルスゾーン、ホッブスとの関係が、同時代的な関係としてはコーエン、ローゼンツヴァイクとの関係が言及されたほか、國分の発表において話題となったドゥルーズのスピノザ解釈や神話解釈(偽の無限の概念)にも問いは向けられた。さらに、シュトラウスがベルリンのユダヤ学研究所でユリウス・グットマンとともにモーゼス・メンデルスゾーン全集の編集に携わっていたことに合田氏は注意を促していた。

このことがいかなる問題を指示しているのかについて、少なくとも以下の事実が手掛かりとなる。1975年に出版されたメンデルスゾーン全集の第三巻・第二分冊には、『朝の時間あるいは神の存在についての講義』(1785)についてのシュトラウスによる浩瀚な序文――1937年にすでに書き上げられていたもの――が収録されている。『朝の時間』は、スピノザ主義というレッテルを貼られたレッシング――当時スピノザ主義とは無神論を意味した――を擁護する目論見を含んだ書物であったが、序文でシュトラウスが詳細に跡づけているのは、レッシングのスピノザ評価をめぐるメンデルスゾーンとヤコービの論争――いわゆる汎神論論争――の経緯であった。またシュトラウスがカッシーラーのもとで書き上げた学位論文がヤコービの認識論を主題にしていたことを考え合わせれば、シュトラウスが汎神論論争に関心を持っていたことは確実である。

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汎神論論争の焦点のひとつは合理主義の限界をめぐる問いである。ヤコービは、よく知られているように、知に対する信の先行性――あるいは信における自然、あるいは存在の発見の先行性――を主張し、合理主義の限界を指摘した。博士論文においてシュトラウスは、ヤコービの認識論の根底にあるこの姿勢を評価している。下記の『思想』掲載論文において大竹が指摘しているように、この立場をシュトラウスは自らのものとすることはなかったが、近代合理主義を批判することになるシュトラウスに、ヤコービの哲学は独特の刻印を残しているように思われる。ヤコービは信における自然の発見の還元不可能性とともに、信じることを「強いる」自然の啓示について語っている。ヤコービにおいては、シュトラウスが峻別する理性と啓示、哲学と啓示のいわば等根源性が指摘されているように見えるのである。アテナイとエルサレムの対立、哲学(理性)と啓示の対立は、ヤコービにしたがえば、双方とも根源的な信に胚胎していることになる。つまり、問題はそれが自然法として発見されるのか、律法として発見されるのかの違いなのではないだろうか。

シュトラウスは、この対立を乗り越える可能性を示唆することはなかった。しかし、いずれにせよシュトラウスは、理性と啓示という啓蒙主義以来の重要性を付されることになった対立を自然への問いのうちで捉え直すことによってこそ、政治哲学を徹底的に再考することができたように思われる。シュトラウスにとって、人為には還元されない自然法の存立を主張するには、この捉え直しが不可欠だからである。二人の発表は、シュトラウスにとって哲学が政治哲学にほかならなかった理由についての一定の解釈を提示していたが、それは両者がシュトラウス自身の思考の根源を、それぞれの仕方で問うたからであろう。この点において今回のワークショップは、今後のシュトラウス研究の方向性をはっきりと示すものになった。

【参考文献】(『思想』2008年10月号「レオ・シュトラウスの思想」収録)
・大竹弘二 「リベラリズム、ユダヤ人、古代人――レオ・シュトラウスにおける啓示の二義性」
・國分功一郎 「自然主義者の運命――シュトラウス、ドゥルーズ」
・合田正人 「オリーブの葉もしくは虹の契約――レオ・シュトラウスと神学政治のメタ批判」

(文責:森田團)

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