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時の彩り(つれづれ、草) 051

2008.12.07 小林康夫

アトランダムについ最近のことをいくつか。

☆ ナイシュタットさん

パリの高等師範学校におけるUTCPの最初のコロック。内容はまた別にブログがアップされると思うけど、気がついたらナイシュタットさんが来てくれていた。会の終りに、やあ、と10月のお礼を言うと、ほら、きみのための詩、と28行のスペイン語の詩を手渡してくれた。

naishtat2.jpg

ブエノスアイレスで、今度は詩について語ろうと言い合っていたのを受けてのこと。「ヤスオのために、海とマラルメへのこのささやかなオマージュを」と書いてある。うれしいなあ。フランス語と似てるからなんとなく分かるだろう、といわれたけど、そうはいかない。それで成田に着いて東大の総長選挙のために本郷に直行したのだが、いいタイミングと同僚の斉藤文子先生にお願いしてその場で訳をつけてもらった。

「裸の眼にきみをどうやって写したらいい? ぼくの網膜の上でこの突然の緑のネガをどうやって作り出したらいい? きみの海の光は空間をとび 神々によって目をさまされて ぼくの視野に激しく侵入してくる・・・・」と続く、かれの言う「非実存主義」の詩境!

わたしが最初はマラルメを研究しにパリに留学したことを受けてもいるのかもしれない。こうなれば詩には詩をもって答礼するのが国際的な義務、わたしも、日本語というわけにはいくまいから、フランス語で「空」の詩学を書くことにしよう。年末の楽しみになるかも。


☆ 「大学は緑の眼をもつ」

パリでもうひとつびっくりしたのが、西山雄二さんの発表に突然、自分が引用されたこと。『知の技法』をめぐる三部作について書いた『大学は緑の眼をもつ』(未来社)からの引用。これは不意打ちでしたね。司会という立場だったのでコメントして、そこでわたしが強調したかったことは、「行為する」ということだったと述べた。知識ではなく、行為として知を定義すること、と。

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言いながら、そういえば、UTCPという「場」も最終的には、単なる「知識」の場ではなく、国際的な場で知を「行為する」、ということだよなあ、と考えれば、これもそのときの「マニフェスト」の自分なりの帰結かもしれないと奇妙に納得した。


☆ ボベロさんと川端康成

ついでにもうひとつ、帰ってきた翌日のUTCPのボベロさんを囲んだシンポジウム。

全体は刺激的でなかなかおもしろかったが、質疑のなかで突然、ボベロさんが川端康成についてわたしが昔に書いたエッセイの「桃山の裾をまわって」に触れたのには、びっくり仰天。どうやら、UTCPコレクションのわたしのもの(第4章)を読んでいてくれたようで、ほら、やはりこうして外国語で読める論集の形にしてあれば読んでもらえるのだなあ、ととても嬉しかった。

もちろん海外の出版社から一冊まとまった形で出版されるのがいいにきまっているが、その前の段階で、外国語版個人論集をつくっておくことは、外国の研究者と対等につきあおうとする以上は絶対に必要。

この方針のもと、これまで、村田純一さん高田康成さん中島隆博さん高橋哲哉さん、それにわたしのものが実現している。今年度もなんとか2冊くらいはつくりたいもの。しかし10本くらいの外国語論文を揃えることができる人はそんなには多くないのが現状。人文科学の国際化とは端的にここにかかっている。それ以外にはない。

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