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【報告】ピエール・バイヤール講演会「探偵的批評入門」

2008.10.29 小林康夫, セミナー・講演会

10月23日午後18時より、18号館コラボレーションルーム2においてピエール・バイヤール氏の講演会「探偵的批評入門」が行われた。作品における大量虐殺の表象可能性という非常に重い題材を扱った連続セミナー「極限のエクリチュール」とはうってかわり、主に探偵小説を対象にして新たな文学批評の方法を紹介する今回の講演は、相変わらず殺人が問題になっているとはいえ、ややリラックスした雰囲気の中で行われた。

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これまでの自分の仕事を簡潔に振り返った後、バイヤール氏はまず探偵的批評なるものを創出するに至った経緯を説明した。幼少の頃より不正に対して許しがたい感情を抱いていたというバイヤール氏は、そのような個人的な気質のために、納得しがたい不十分な結末を提示するような、あるいは、真実味に欠ける仕方で謎が解決されているような文学作品を前にして黙っていられなかった。具体的にはソフォクレスの『オイディプス王』とベルナノスの『ある犯罪』の読解が決定的だったようである。作品の中の齟齬、不十分さ、真実味に欠ける部分をつぶさに観察し、辿りなおし、納得がいくような結末を探し出すこと。不当にも殺人の汚名を着せられた登場人物の冤罪を証明し、殺人事件の真の犯人を探し出すこと。バイヤール氏は探偵となって作品世界へと参入することを決意したのである。

探偵的批評の実践はアガサ・クリスティの『アクロイド殺し』、シェークスピアの『ハムレット』、そしてコナン・ドイルの『バスカヴィル家の犬』に対して行われた。それぞれの作品に対するバイヤール氏の探偵的読解はすべて著作として結実しているのだが――『アクロイドを殺したのはだれか』(邦訳、筑摩書房)、『ハムレットに関する捜査』、『バスカヴィル家の犬事件』――、講演ではそのエッセンスのみがとりあげられ紹介された。注意しなくてはならないのは、それぞれの作品が孕む齟齬や矛盾を問題にしたのは決してバイヤール氏が最初ではないということである。すでに作品の整合性を疑問視する先行研究がいくつかあり、バイヤール氏はそれらを手がかりとしながら、さらにもう一歩踏み出して自身が探偵となることを試みているのである。それぞれの作品を読む楽しみだけでなく、バイヤール氏の本を読む楽しみも減じてしまうことになりかねないので――つまり犯人の名を挙げるというネタバレをすることになるので――ここでは具体的な分析を報告することはしない。

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スリリングで興味深い読解を提示した後、バイヤール氏が最後に述べた結論は意外と穏当なものだったといえる。すなわち、文学作品は不完全な記述を孕み、省略的で、語り手も信頼に足らないため、通常考えられているよりも――とはいえ、エーコの『開かれた作品』がすでに指摘したことだが――はるかに開かれたものであるというものだ。また、これもサルトルをはじめ多くの文学理論家が述べたことではあるが、作家自身は自分が構築した世界の信頼できる証人であることはなく、それゆえ登場人物は作者の支配から逃れ固有の生を生きることになる。このことが探偵的批評の作品への介入を可能にするのである。バイヤール氏の結論はそれだけを聞けば目新しいものだとは言えないが、講演において実践された作品への介入は、理論が口にする「テクストの快楽」ではなく、実践がもたらす「テクストの快楽」をわたしたちに垣間見せてくれたといえるだろう。

(文責:桑田光平)

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