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時の彩り(つれづれ、草) 046

2008.10.07 小林康夫

☆ ブエノスアイレスの春

 バリローチェからの飛行機。外を見ていると、雪をいただくアンデス山脈から、茶色の大地がただ続くだけの荒地を経て、ようやくパンパに入ったなあ、と思うとまさに刷毛ではいたように薄緑がつぎつぎと広がってブエノスアイレスに着いたときには、わずか数日の間隔なのに、もうすっかり春。人々の顔もなんだか嬉しそう。

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 翌日は日曜日で休日。晴れ上がった空の下、ひとりで港のあたりを歩いたり、「五月革命」記念博物館を訪れたり、そして最後にはボルヘスゆかりのカフェ・トルトーニに座り込んで、こっちで買ったボルヘスのエッセイ(英語)を読んでいた。まったく見知らぬ街でのひとりの休日。自分のものとは言えないような浮遊の感覚。なにものでもないものとしてここにいる、という不思議。

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 しかしそれも束の間。今日は朝の9時にはナイシュタットさんが迎えにきてくれて、近くの国立図書館でのシンポジウム。最初のセッションはもちろんスペイン語だが、ナイシュタットさんがわれわれの隣に座って難しい内容をさらっと通訳してくれた。続いて、西山さんと、パトリス・ヴェルムランさんとわたしの三名のフランス語の発表。その内容は西山さんのブログ報告にまかせるとして、わたしのテーマもそうだったが、「責任」という問題が中心的な問題だった。

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 大学の責任、人文科学の責任とはいったいなになのか? ウルグアイやカナダからやってきた研究者も巻き込んで質疑が行われた。ヴェルムランさんが指摘していたように、このような「場」こそ、まさに大学という制度を通じて、しかし社会が期待する大学の「機能」を大きく超えて、大学の本来の意味が「開く」場なのではないか。そのような場を「保持」すること――そのためにこそ、こんな遠くにまでやってきて、不出来な外国語をあやしく操って無理な発表をしているのだと思う。

 さあ、今回の長い旅も終わり、今晩、東京に向けて飛行機に乗る。だが、もちろん「大学」というこの「冒険」に終りはない。その「終りなさ」に耐えることこそ「責任」というもの。

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