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【UTCP Juventus】 植原亮

2008.08.15 植原亮, UTCP Juventus

UTCP若手研究者プロフィール紹介の第7回、担当は植原亮です。研究分野の認識論的自然主義と脳神経倫理学について、研究の内的発展の経過もまじえながらご紹介させていただきます。

 私の研究の核にあるのは、つねに方法論的ないし認識論的自然主義である。したがって、研究は、認識論的自然主義そのものを対象にするか、他の領域に認識論的自然主義を個別的に適用していくかのどちらかになる。肝心の認識論的自然主義が何であるかは以下で少しずつ明らかになっていくであろう。 あるときある人に(中澤栄輔さんだが)、その強固な自然主義は何に由来するのか、と尋ねられたことがある。この問いかけに対する私の回答はいろいろと考えられるのだが、回答のひとつはこうだ。すなわち、若き日のW・V・O・クワインに生じたといわれているのと同じ欲求が私の中にもあることに由来する。それは、世界とは何であるかということを認識するだけではなく、そのような世界についての認識がまさにその世界においてどのように成立するのかということをも理解したいという欲求、つまり、世界の全体的理解への欲求にほかならない。

1 自然化された認識論
 クワインと同じ欲求に駆られた私は、いわゆる自然化された認識論に関する研究に向かうことになった。自然化された認識論とは、認識論を、諸科学を基礎づける第一哲学として見るのではなく、あくまでもそれを自然科学の内部における営みと見たうえで、心理学や認知科学、あるいは生物学などの自然科学との方法論上の連続性を保ちながら、知識という対象の成立を一種の自然現象として探求しようとする考えを指す。そのため、自然化された認識論は、「世界の中で生み出されている知識とはいったい何か」という記述的な問題に答えることを一つの課題とする。また、自然化された認識論は、こうした記述的な問題と連携して「われわれ人間はいかにして知識を生み出すべきなのか」という規範的な問題に答えようとする分野でもある。

規範的問題への取り組み
 私はまず、「いかにして知識を生み出すべきなのか」という規範的問題に取り組んだ。具体的には、自然化された認識論の提唱者であるクワイン議論の解釈、A・ゴールドマンの信頼性主義の検討、さらにはゴールドマンの立場の認識論的メタ正当化に用いられる方法(反省的均衡)の批判的吟味を行った。この取り組みは、その過程で、「正当化」や「真理」などの基礎的ないし根元的な哲学上の概念に関する批判を含む徹底したものとなった。そのうえで、S・スティッチやH・コーンブリスの立場を参照しつつ、規範的問題への解決の糸口として、認識的プラグマティズムへとたどり着く道筋を示した。こうした作業は、当該分野の現在の論争状況に関するいわば「論理地図」の作成だと言えるだろう。またそれと同時に、概念分析や反省的均衡といった、分析哲学の主要な方法とその限界についての研究でもある。
 そして、この作業の後で、自然主義的な規範的認識論の一形態として、認識的プラグマティズムの内実を明確にすることを目指した。それは、より具体的には、スティッチの多元主義的な立場に対するコーンブリスの批判から、スティッチを擁護するという形でなされた。この結果、以下のようなことを私独自の立場として提示することができた。すなわち、第一に、認識的プラグマティズムにふさわしい知識観ならびに真理観は、古典的プラグマティズムの見解におおよそ一致するものだということ、また第二に、認識論上の規範的な問題に十分答えるためには、真理と知識にまつわる共同性や歴史性への配慮が不可欠だということ、そして第三に、知識の適切な評価は、知識の主体が置かれた状況内での行為の帰結に照らしてなされるべきだということ、の三点である。
 以上の研究の成果から生まれたのが、認識的プラグマティズムを主題とする論文「認識的プラグマティズムの擁護とその含意」や、反省的均衡を批判的に検討したうえで、それを認知的分業の中に埋め込むという選択肢を示唆した論文「反省・合理性・分業体制」である。


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記述的問題への取り組み
 次いで私は、「世界の中で生み出されている知識とはいったい何か」という認識論上の記述的な問題に取り組みはじめた。この問題は、「知識についての自然科学が成り立つとすれば、知識はどのような対象として捉えられねばならないか」という、自然化された認識論の関心によりひきつけた形で再定式化することが可能である。私の研究は、この問題に解答を与えようとするひとつの方向として、コーンブリスが唱える立場、すなわち「知識の自然種論」を検討することを起点としている。この立場によれば、電子や水や生物種などの自然種が自然科学の対象であるのと同様の仕方で、知識も自然種として探求可能である。知識は、世界における一定のメカニズムを基礎として成立する現象であり、そのため一群の性質を恒常的にもち、また知識を有する主体のふるまいに関する説明と予測が可能になる。こうした点において、知識は独自の理論的統一性を備えている、というわけである。
 私の研究は、この立場をさらに深化・展開することを目的としている。それはとりわけ、に「知識が理論的な統一性をもつという主張は、知識に見出される多様性とどのように折り合うのか」という問に答えることを通じてなされている。
 この問には、コーンブリスの立場が背景とする自然種観を明らかにすることによってアプローチを試みた。その自然種観とは、R・ボイドやR・G・ミリカンなどが示している新しい実在論的立場にほかならない。研究の結果、知識のもつ統一性は生物種のそれと類比的に捉えられるべきであり、またそれとともに、知識に見出される多様性は、知識が生物学的世界の中で安定して存続してきたという事実を反映したものとして肯定的な意義を付与することが可能である、という見解にたどり着いた。この見解は、実在において探求しうる対象として知識を捉える認識論の新しい方向を示すことを通じて、知識の必要十分条件を概念的に探求するという従来の認識論の手法に対して重大な反省を迫るものだと考えている。この研究成果は、論文「知識を世界に位置付ける」として結実した。

ア・ポステオリズムの徹底という態度
 こうした認識論的自然主義の研究を通じて、私の身に徐々に染み込んできたことがいくつかあるが、それらの特徴を一言で表せば、「ア・ポステオリズムの徹底」とでも言えるだろうか。たとえば、私は、直観の果たす役割にかんして次のように考えている。哲学において直観は議論の最終的な裁定者としての役割を果たすことなどまずなく、その妥当性は実際には探求がある程度進んだ段階でしか評価できない。直観は、何を探求すべき対象と見なすべきかにかんするガイドにはなるが、探求はそこで終わるものではなく、むしろそこを出発点として理論構築が始まるのである。当初の直観が探求対象の性格をどのくらい捉えることができていたかは、理論構築が十分に進み、探求領域がよく理解されたうえで回顧的に評価されるほかない、というわけだ。
 私は、直観に限らず、概念分析や思考実験その他の分析哲学のスタンダードなツールにかんしても同様のスタンスをとっている。あくまでも経験的な探求の成果が尊重されねばならないからである。そしていうまでもなく、これは経験理論の構築を重視するという態度と相即するものであり、哲学的な議論は、それがいかに経験理論の構築に貢献するか、すなわちどのくらい実り豊かなリサーチ・プログラムを提示できているか、という点をひとつの重要な尺度として評価されるべきだという見方に結び付いている。


2 脳神経科学の倫理学-エンハンスメント
 私は上記の認識論における研究に加え、応用的な領域として脳神経科学の倫理学に関する研究、すなわち、脳神経科学という具体的な科学的知識がどのような倫理的・社会的な影響をもたらすか、といった問いをめぐる研究も行ってきた。中でも、脳神経科学の応用技術にもとづくエンハンスメント(人間の諸能力の増強や強化)を問題にしている。
 より具体的な研究内容は以下のようなものである。まず、神経薬理学の産物であるスマートドラッグ(集中力や記憶力を増進する薬物)が、社会と人間性にもたらしかねない様々な影響を詳細に描き出すとともに、スマートドラッグの反対派と容認派が立脚するそれぞれの価値観や人間観などの基礎的な枠組みを、明確な形で抽出・整理した。これによって、この問題をめぐる対立状況に関して、きわめて広域的でしかもある程度の深さを備えた見取り図を提供することができた。次に、ここで描き出した対立をより生産的な対話に転換するための方法論的考察を、上記の認識論における研究成果を部分的に活用しながら行った。以上の研究結果は「スマートドラッグがもたらす倫理的問題」などの論文として発表された。しかもこの論文は、第一回社会倫理研究奨励賞(南山大学)の受賞論文となった。ありがたい限りというほかはない。
 さらに私は、心の哲学との接合を試みることによって、この分野の理論的洗練を図っている。脳神経科学に基づく知的能力の増強技術によって、素朴心理学上の自己や人格に破壊的な影響が及ぼされる可能性を考察した。その成果が、たとえば「脳神経科学を用いた知的能力の増強は自己を破壊するか」である。
 こうした研究を背景にして現在取り組んでいるのが、UTCPで短期教育プログラム「エンハンスメントの哲学と倫理」である。このプログラムの中で私個人は以下の問題を扱おうとしている。近年、エンハンスメント技術にもとづいて現在の人間を超越し、人間以後の存在(ポストヒューマン)を肯定しようとする思想、つまりトランスヒューマニズムが現れ始めている。しかし、トランスヒューマニストたちがどのような価値論に立脚してこのような主張を展開しているかはあまり明らかではない。したがって、トランスヒューマニズムの内実をしっかりと把握するには、価値論的観点からの考察が不可欠であろうと考えている。

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