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【現地報告@ソウル】グローバル時代の哲学?―「第22回世界哲学会議」見聞記

2008.08.06 村田純一, Humanities News

2008年7月30日か8月5日まで、ソウル国立大学において世界中の哲学者の祭典ともいえる世界哲学会議(The XXII World Congress of Philosophy: Rethinking Philosophy Today)がアジアで初めて開かれた。

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以下で、この会議に関するごく簡略な印象的感想を記しておきたい。ただし、わたしは、日程の都合上、この会議に実質2日間(8月1日と2日)出席できただけだったので、以下の見聞記は、ごく限られた、まったく私的な感想にとどまっていることをお断りしておきたい。

わたしが世界哲学会議に出席したのはこの会議が2度目である。最初は、ちょうど30年前、わたしがDAADの奨学生としてケルンに滞在していた時、たまたま隣の都市デュッセルドルフで開かれていた大会に出席したときであった。その時には、わたしは、学生割引もあるというのでフッサールアルヒーフに集まっていた研究仲間と一緒に、興味本位で出席しただけで、何人かの有名哲学者の顔を見たりした以外には、あまり印象に残る経験はした覚えはなく、いまではほとんど記憶には残っていない。そのような事情もあって、それから5年ごとに開かれる国際会議については、ほとんど興味を持たないまま過ごしてきた。ところが、今回は、アジアで初めて開かれるということもあり、また、たまたま、昨年このプレ大会ともいうべきソウル・アジア哲学会議に招待されたおり、ソウルの友人たちの強い熱意を感じ、また、この大会を日本で宣伝してほしいという要請を受けたので、何とか参加したいと考えた次第であった。そしてその結果は、わたしの予想をはるかに超えるもので、わたしは世界で起きている哲学に関係する出来事から強い印象を受けることになった。

わたし自身が参加したプログラムは、UTCPの仲間と行ったRound Table Sessionと日本、韓国、中国、台湾の哲学会の交流の場として設けられたSociety Meeting Sessionの二つであった。前者は、UTCP関係の参加者が記録を書いてくれることになっているので、以下では、後者に関しての記録と、その他のわたしなりの感想を書いておくことにしたい。

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(オープニングセレモニーでの韓国伝統音楽の演奏)

1.日本の哲学

日本、韓国、中国、台湾の哲学会の代表が集まった会議は、8月1日と2日の4時から6時まで2回にわたって行われた。わたしが出席できたのは、一日目の会議であった。
東アジアの地域の哲学に関する組織の代表が一堂に会して話し合うということは、これまでまったくといっていいほどなかったことなので今回の計画は歴史的出来事とも言える。しかし、またそれだけに、かなり形式的なものにならざるをえなかった。特に一日目がそうであった。

1日目には、最初の1時間強で、各学会の代表者がそれぞれの学会の成り立ちと現状について10分程度の報告を行った(日本からは、高山守現日本哲学会会長と野家啓一前会長の二人が話をした)。そして残りの50分程度で、contemporary issuesという題目で、それぞれの学会で、問題になっている現代的な話題について紹介することが行われた。わたしはこの部分で、日本の哲学に関して、技術哲学の観点から、日本の哲学の特徴(特徴がないという特徴)についてわずかばかり話をした。その内容は特に日本の哲学者にどのように受け取られるか心配もあったが、少なくともわたしの耳にした範囲では、意外にも、好評であった。しかしここで記録しておきたいのは、わたしの話の内容ではなく、この会に付随して経験したことである。

この会の後で、せっかく集まったのだから、会の後で代表者を集めた食事会でも開こうということになり、参加者が移動して食事に向かうことになった。その時、たまたま、わたしはこの会に参加していた、香港からの若い研究者と、欧米からの学生と出会ったので、彼ら、彼女らも誘っておえら方の会に出席することにした。こうした若い人が出席したためもあって、食事の会は大変和やかに話が進むことになった(ように思われる)。
このとき参加した香港からの若手の研究者はちょうど7月の後半にUTCPに訪ねてきてくれた香港中文大学の張政遠さんと香港教育学院の林永強さんであった。このお二人は、近々、西田哲学を中心とした日本の哲学をテーマにした国際会議を香港で開くことを計画しているとのことであり、その協力をUTCPに求めてきたのであった。そして、ほかの方は、カナダから日本の関西大学に来て京都学派の哲学の研究をしている女子学生と、ドイツから京都大学にきて、やはり西田哲学の研究をしている女子学生であった。どちらも文部省の国費留学生として来日している期間にこの大会があったためにソウルまで出かけてきたということであった。わたしは、香港の若手の研究者が「日本哲学」に関する国際ネットワークを構築したいと考えていることに大変驚いていたが、それに加えて、さらに欧米から若い大学院生が日本哲学を学びに日本に来ていることを今度のソウルの会議で知り、さらに驚くことになった。現在の時点で、西田をはじめとする京都学派の哲学に興味をもって、それを研究しようとしている若い研究者が海外にかなりいるらしいということ、これはどういうことなのだろうか。そしてまた、なぜ今の時点で京都学派なのだろうか。必ずしもはっきりしない。

少なくともわたしの印象では、間違っているかもしれないが、このように多くの若い研究者が日本の哲学に興味を持つのは、必ずしも京都学派そのものが興味を持たれているろいうより、むしろ、日本という国そしてその文化が興味を持たれているのではないかとおもわれる。そしてもし海外の方が日本の文化の根底をなしている哲学に興味を持ちはじめたとしても、日本の哲学というと京都学派のほかに目につくものがないために、結果として京都学派の研究という方向に進むのではないかとも思われた。いずれにしても、グローバル化したこの時代に、日本の哲学に関する興味が国際的に持たれていること、そうした点に関しての意識を日本の哲学者はどれほど持っているだろうか。さまざまなことをこうした出会いから考えさせられることになった。

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2.アフリカの哲学

ソウルの大会は毎日9時から始まり、その最初の時間帯には、大講堂で開かれるplenary sessionが設けられ、おおむね参加者全員が参加できるようになっていた。8月1日には、Rethinking Metaphysics and Aesthetics: Reality, Beauty and the Meaning of Life、8月2日にはRethinking History and Comparative Philosophy: Traditions, Critique and Dialogueというテーマのセッションが設けられていた。また、8月1日の午後には、やはり大講堂で、Tradition Modernity and Postmodernity: East and Western PhilosophiesというテーマでのSymposiumが開かれた。

ここであげた最初のセッションには日本から、美学の佐々木健一さんが講演を行い、最後のセッションでは韓国哲学界の英雄的存在である、バッファロー大学のKah Kyung Cho先生が講演された。中でも印象に残っているのは、内容ではないが、ここで挙げた二番目のセッションの中でメキシコの哲学者がヨーロッパ中心主義を超え、周辺を重視した新たな多様な哲学的見取り図の必要性を提起したときに、ブラボーという声と共に、拍手喝さいが異例なほど長く続いたことである。今回の大会がアジアで開かれたこと、グローバル化を巡る様々な問題が噴出している状況下での会議であったことなどを象徴的に表現している情景に思われた。

大会はこれらの招待者を中心にしたセッションに加えて、わたしたちが参加したRound Table Sessionそして各国の学会が組織するセッション、また、今回の特徴であるStudent Sessionなどが組まれていたが、最も多くの発表がなされたのは、多様な分野に関して一般から論文を公募してできているContributed Papersからなるセッションである。
Contributed Papersのセッションは玉石混交で、また、採択されプログラムには載っているにもかかわらず発表者が現われなかったりすることがしばしばあり、いかにも国政哲学会という雰囲気がする場所である。この分類に属するセッションの中で、わたしが出席したのはPhilosophy of Technology とAfrican Philosophyの二つのセッションであった。どちらも、四人が発表者としてプログラムに載っていたが、実際に発表したのは、一人ないし二人という有様であった。しかし、発表者が少ないということは、必ずしもそのセッションがつまらないものになるということではなく、場合によっては、つまり、発表が優れたものである場合には、発表者がそろっている場合よりも興味深く熱心な議論が展開される場合もある。わたしが出席した二つのセッションはどちらも結果的にはそのような興味深いものであった。

特に私にとって印象深かったのはアフリカ哲学のセッションであった。
わたしはたまたま前日に昼食を待っていた時に、アンゴラから来た二人の哲学者と二言三言言葉を交わしたことがあって出席したのみであり、アフリカ哲学に関して何一つ予備知識を持っていたわけではない。8月2日のセッションでは、四人の発表予定者のうちあらわれたのは一人だけで、しかも発表者はアメリカの女性の研究者であった(Gail Presbey, Secularism and Rationality in Odera Oruka’s age Philosophy)。
発表者はケニヤのOrukaという研究者が行ったSage Philosophyのプロジェクトを紹介しながら、自らの調査結果を報告した。Orukaによるプロジェクトはアフリカの「哲人(聖人)」の伝統を魔術や宗教から切り離して、「哲学」とみなす試みのようで、アフリカにも哲学がある、という主張につながるもののようであった。

こうした発表に対して、セッションに出席していた多数のアフリカの哲学者たちは、それぞれの観点から熱心に議論を展開することになった。
一つの意見は、Sage Philosophyは哲学ではない、という発表に対する批判的なものであった。自分たちは、何も、アフリカ特有の伝統的考え方をそのまま哲学と主張したいわけではなく、プラトン以来の西欧の哲学の地平を踏まえて、「普遍的」な哲学を目指すべきだ、ということが強調された。
また、Sage Philosophy Projectそのものは、哲学ではなく、カルチュラルスタディの一種ではないかという意見も出された。哲学をカルチュラルスタディと混同するポストモダニズム的見解へはつよい反発を持っているように見える意見が出された。これに対して、発表者がさまざまな応答することをとおして議論はさらに発展していった。その過程で、香港から来た先にあげた張さんが割り込んで、中国哲学にとっても同じような問題がある、という発言をして、哲学とは何か、という問題をめぐっていよいよ議論は白熱することになった。
わたしは時間の都合で最後まで議論の行方を見届けることはできなかったが、このセッションに出席することで、今回の世界哲学会議に出席して最も興味深く、かつ最も印象深い経験をすることができた。
このセッションの最初に、司会者は今回の大会でアフリカの哲学についてのセッションを設けることには大変な困難があったということを述べていた。この話を聞く限り、多分、アフリカの哲学というセッションはこれまではほとんどなかったのではないかと思う。そういう点では、「アフリカの哲学」にとって、今回の会議は歴史的なものと言えるのかもしれない。

以上、大変大雑把であるが、わたしが今回のソウル世界哲学会議で得た印象である。以上のような印象をお聞きになって、なんだ、今になってそんなことに気付いたのか、鈍いやつだ、という感想をお持ちになる方もおいでになるかもしれない。確かに、年を取ってくると、視野が狭くなりながら、そのことに気づかなくなるということは大いにあることなので、ここで述べた感想は視野狭窄症に陥っている人間の感慨にすぎないといえるかもしれない。しかしそうであったとしても、というより、まさにそのような欠陥を備えているためにこそ印象深く物が見えることもあることは否定できないだろう。少なくとも今回、わたしが経験したソウルでの国際会議は、現在、世界で起きている哲学をめぐる出来事に僅かなりとも眼を開かせてくれ、それによって、21世紀の哲学が、日本で、東アジアで、そして世界で、どのような姿をとることになるかの一端を垣間見たような気にさせてくれたことは間違いない。

(文責:村田純一)

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