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【報告】Christian Uhl, 'Between Nietzsche and Evolutionary Theory: Lu Xun's Contradiction Revisited'

2008.08.10 日本思想セミナー

7月21日、「UTCP日本思想セミナー」として、ベルギー・ゲント大学のクリスティアン・ウルさんに「進化論とニーチェの間:魯迅の矛盾の再検討 (Between Nietzsche and Evolutionary Theory: Lu Xun's Contradiction Revisited」と題して講演していただいた。

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 この発表でウル氏は、魯迅の進化論と彼のニーチェ解釈を中心に、特に魯迅の社会進化論説とニーチェ的な個人主義の矛盾に注目した。ウル氏はまず、これまでの魯迅研究がなぜ魯迅の進化論と彼のニーチェの解釈をうまく説明できなかったのかを説明した。この矛盾を指摘した研究者もいるのだが、しかし、こうした矛盾を魯迅の経歴のなかで体系的に理解できなかった。多くの学者は魯迅の「那来主義」あるいは折衷主義でもってその思想的矛盾を解釈するのだが、それは魯迅の思想に潜んでいる論理を無視するものだ。ウル氏によると、魯迅はまずニーチェの個人主義と進化論を組み合わせようとした。換言すれば、魯迅はニーチェの超人(Übermensch)を社会進化論の結果として解釈するのである。その解釈は勿論、ニーチェの自己理解とは異なる。つなり、ニーチェ自身は人から超人への進化を語ってはおらず、逆に、個人の自己超越を持って通常の社会進化論を批判しているのだ。特にニーチェは自己超越を通じて社会的道徳に抵抗しようとしたのである。

 ウル氏の説によれば、ニーチェと魯迅の問題関心の違いは両者の歴史背景に由るものだ。ニーチェは当時のヨーロッパの工業化されたブルジョア文化や道徳を批判したのに対して、魯迅は二十世紀初頭の中国に対して新しい社会道徳を作ろうと試み、そのためにニーチェの議論を援用した。だから、ニーチェのニヒリズムは正に魯迅のために問題になった。ウル氏によると、魯迅が1926年に書いた詩『野草』ではある程度、ニーチェの『ツァラトゥストラ』の中のイメージが皮肉的な仕方で使われている。つまり、魯迅はニーチェ批判を通じて、正に魯迅自身の個人主義を批判するのだ。実際、1926年以後、魯迅は文学から離れて、より直接的に政治の問題に参与するようになる。

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 最後にウル氏はモイッシュ・ポストンの資本主義分析を持って、魯迅の進化論と個人主義という矛盾の歴史的意味を問うた。ポストンのマルクス解釈によると、資本主義において労働は商品の形態に見られるような二重性を持っている。周知のように、商品の形態は交換価値と使用価値に分かれる。使用価値は商品の具体的な側面を示しており、物はいかに具体的な需要を満たすかということを指す。交換価値は逆に抽象的であり、その見地から見れば、商品はすべて均質で、交換する或いは比較することができる。ウルさんによれば魯迅の思想的矛盾もこのような商品の形の対立を示す。つまり、魯迅とニーチェの個人主義は具体的な側面、あるいは使用価値の側面を表現して、進化論は均質な側面あるいは交換価値の側面を表現する。それゆえ、魯迅の矛盾はただの中国の問題ではなくてもっと世界歴史的な意味を持つのである。

 ウル氏の発表は文献学的技法と理論的関心とが合致した、非常に有意義なものであり、その後、活発な議論が繰り広げられた。中島隆博氏は、魯迅の『野草』はたんなるニーチェの「皮肉的」なテクストではなくて、ある種の贖いの可能性をも記述しているテクストではないか、と指摘した。また、デンニッツァ・ガブラコヴァさんは魯迅とマルクス主義の関係について質問し、そのテーマがさらに幅広く討論された。

(文責:ウィレーン・ムーティ)

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