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「世俗化・宗教・国家」プログラムの中間報告会

2008.08.05 羽田正, 勝沼聡, 内藤まりこ, 太田啓子, 澤井一彰, 世俗化・宗教・国家

7月18日、「世俗化・宗教・国家」プログラムの中間報告会が行われた。

まず、「世俗化・宗教・国家」プログラムのリーダー羽田正教授が、これまでの活動を総括し、今後の展望を示した。本プログラムの問題関心として、「イスラーム世界」という概念が、近代ヨーロッパの世俗化の過程で生み出されたこと(『イスラーム世界の創造』東京大学出版会, 2005年)を踏まえ、現代社会でみられる宗教復興の動きを世界全体の現象として捉えることで、イスラーム特殊論に陥らず、共生のための宗教を論じる新たな語りが説き起こされるのではないかとする。具体的な方法として、今学期は「世俗」「宗教」「国家」などの概念の成立を、日本語、ヨーロッパ諸語、中国語、アラビア語などの諸言語に即して検証してきた。(これまでの活動の詳細は、本プログラムのブログを参照のこと。)その結果、いずれの概念もヨーロッパ近代の歴史的経験を通じて成立したことが明らかになったとする。ここから生じた問題として、これらの概念を非ヨーロッパ世界について用いる妥当性や、ヨーロッパ近代に成立し、現代まで積み重ねられてきた人文系学問の枠組みの有効性と新たな学問の構築の必要性が指摘された。

続いて、RA、PD研究員の報告が行われた。まず、PD研究員の太田啓子から「イスラーム政党における「公正」概念」として報告があった。「イスラーム政党」と呼ばれる政党の名称にしばしば用いられる「公正」という語はコーランに由来する(「正義」や「公平」などとも訳される)。「公正」の概念と政治との関わりをみると、「公正」は中世におけるイスラーム法解釈では重要な意味を与えられていたものの、当時は世俗実定法カーヌーンが存在し、イスラーム法のみに依拠して政治が行われてきたというわけではない。現代世界のイスラーム政党が称する「公正」は、イスラーム的公正として掲げられたものであるが、貧富の差の改善や物価高の抑制といった実際の政策は、必ずしもイスラーム的公正に由来するわけではなく、むしろ社会主義思想にその影響がみられる場合がある。このように、「イスラーム政党」と称される政党について、何をもって「イスラーム」がその特徴として語られるかを考えると、「イスラーム」の概念は甚だ曖昧であることがわかる。「イスラーム」として示される事象の個別的な検証が必要とされることが指摘された。

次に、PD研究員の澤井一彰による「トルコ共和国のスカーフ問題にみる『世俗主義laiklik』」についての報告があった。トルコにおける世俗主義は、公的な空間からの宗教の排除を原則する。しかし、実際にはトルコの議会において、イスラーム政党とこそ名乗らぬものの、2002年11月から現在に至るまで単独与党として機能している公正発展党(AKP)の位置づけや、スカーフ問題をめぐる政治的判断の動向(2008年2月には大学でのスカーフ着用を解禁する憲法改正案が可決成立したものの、同年6月には憲法裁判所で憲法改正を無効とする判決が出た)をみるかぎり、世俗主義の原則は、議会制民主主義との対立という構図と取りつつ問題化されている。こうしたトルコの世俗主義の状況を分析することは、まさしく本プログラムの問題関心に直結するものとしてあることが指摘された。

続いて、PD研究員の勝沼聡から「世俗主義と『西洋化』:大戦間期エジプトを例として」と題する報告が行われた。第一次大戦後、1922年に国際法上の独立国としてエジプトが成立すると、エジプト化(タムスィ―ル)の動きが各方面でみられるようになる。アラビア語改革(コーランの言語から「国語」へ)や、イスラーム史に代わる「国史」の編纂などは、世俗主義者の代表的思想家であるサラーマ・ムーサー(1887-1958)が提唱した案であるが、注目されるのは、こうしたイスラームあるいはセム的伝統を相対化するエジプト化が、エジプトをヨーロッパ文明の文脈に接続させる「西洋化」への志向でもあったことである。大戦間期において、イスラームの影響の排除を主張する世俗主義者によって牽引されたエジプト化の背景に、世俗化を通して西洋化を果たそうとする動きを見通し、世俗主義が抱えるイデオロギー性を指摘する本報告は、本プログラムがこれまでみてきたヨーロッパの世俗化の過程と深く関わる問題としてあるだろう。

最後に、RA研究員の内藤まりこから、日本の文脈における「世俗化」の問題についての報告があった。明治政府が打ち出した政教分離の政策は、近代における日本の世俗化の過程を示すとされる一方で、ヨーロッパの文脈において成立した「世俗化」の概念を日本の近代化の問題として論じることが有効であるのかとする議論もある。同様の問題は、「宗教」という語についても考えられる。近世には仏教内の宗派の教えを意味するにすぎなかった「宗教」という言葉は、近代に入って諸宗教を包括する意味で用いられるようになり、「仏教」や「神道」などの各宗教が体系づけられることになった。ここで問題となるのは、近代において成立した「宗教」概念が、それ以前の時代の信仰のあり様にまで投影されることである。近代に成立した宗教概念は、私たちの認識の地平を形作り、学問の体系を成り立たせている。そこからは捉えきれないが故に、見えないものとされ、既存の宗教体系から抜け落ちてしまう信仰の形を捉えることは、同時に新たな認識の枠組みや知のあり方を思考することでもあるはずだ。

議論の場では、コーランの中に「公正」と訳される語が複数あることから、それらの差異についての質問や、世俗化の過程をそれぞれの国の単位で論じるだけではなく、世界全体の歴史的動きとして捉えられないかという指摘がみられた。今回の報告会は、これまでの本プログラムでの活動の成果を、それぞれの研究員が自らの問題関心として引き取り、「世俗化・国家・宗教」の議論として提示したという意味で、非常に有意義な時間であったように思う。

(文責:内藤まりこ)

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