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【報告】講演 「文化間・宗教間の理解をめぐって−ドイツの視点からみた状況、理論、課題」

2008.05.15 大貫隆, 世俗化・宗教・国家

2008年5月13日(火)、ペーター・ミュラー (Peter Muller)教授(カールスーエ教育大学、ドイツ)とアニタ・ミュラー (Anita Muller-Friese) 氏(フランクフルト大学私講師、バーデン州プロテスタント教会中央研究所主任研究員)による講演 "Intercultural and Interreligious Learning in a German Perspective: Situation, Concepts, and Challenges"(文化間・宗教間の理解をめぐって−ドイツの視点からみた状況、理論、課題)が行われた。

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ペーター・ミュラー氏の議論は、宗教間の対話の可能性を問うもので、"inter-”という前置詞の意味を、宗教間の対話の文脈において検討することから始められた。宗教間の対話は、キリスト教、イスラム教、仏教などそれぞれの宗教的立場から行われることとしてあり、そうした立場の〈間〉には、それぞれの宗教な体験や信条などに由来する違いが、いわば対話の障害として存在する一方で、そこにこそ、宗教的立場の相違を超えて開かれる宗教間の対話の可能性があるとする。

こうした宗教間の対話が要請された背景として、ミュラー氏はドイツにおける移民の問題を指摘する。1960年代以降、キリスト教以外の宗教を信仰する移民がドイツ国内に大量に流入している。とりわけ、ドイツ国内のイスラム教徒は400万人に及ぶといわれ、人口の5%を占める。キリスト教徒が人口の75%を占めるドイツにおいて、いまや第二の宗教人口となったイスラム教の存在は、これまでキリスト教とユダヤ教との間でのみ行われてきた宗教的対話を、その外部へと開くことを要請する要因となったのだ。

ここで、ミュラー氏は、異なる宗教間の関係性のありかたとして、次の三つのモデルをあげる。まず、一つの宗教を絶対化する排他主義のモデル(exclusive model)があげられる。このモデルは、特定の宗教のみを絶対視するもので、その宗教の外に救いはないとする。このモデルの場合、他の宗教は偽りとされたり、異端とされたりするか、せいぜい条件付きで認められるだけなので、他の宗教との対話は成り立たない。また、ヨーロッパ中心主義の文脈においては、キリスト教が政治的・文化的優位な状況にあることで、他の宗教が劣位に置かれるという点も看過できない事実としてある。

続いてあげられるのが、包括主義のモデル(inclusive model)である。このモデルでは、個々の宗教はそれぞれ絶対的であるとされ、他の宗教の絶対性が認められる。キリスト教の神の力が、他の宗教においても顕現することを示唆する「無名のキリスト教者(anonymous Christians)」という表現が示すように、キリスト教と他の宗教との間の親和性を探り、対話の可能性を見出すのが、このモデルの目的であるとされる。

最後にあげられたのは、多元主義神学(pluralistic theology)に基づくモデルである。このモデルでは、諸宗教の絶対性が放棄される代わりに、すべての宗教における教義や実践上の違いが認められる。宗教多元主義の神学では、論者によって見解の相違があるため、ミュラー氏はそれらのいくつかを紹介された。まずは、ジョン・ヒック(John Hick)の提唱する多元主義である。キリスト教と他の主要な宗教は、"the real”と称される究極的実在に対する応答であり、諸宗教間の教義や実践は異なるものの、それぞれの宗教の核には同様の救いの契機があるとする。ここから、神学的な平等の下に開かれた対話の場において、諸宗教が出会うとする”partnership of salvation” (救いの共存)の思想が導き出される。これに対して、レイモン・パニカー(Raimon Pannikar) は、多元性それ自体が究極的な実在の構造を示すとして、ヒックのいう統一的な実在に対して、"trinitarian structure of reality” (実在の三位一体的構造) もしくは"cosmotheandric reality” を提唱する。続いて、ポール・F. ニッターに代表される多元主義が紹介された。ニッターはキリスト教を生き延びるための言語の実践と論じ、キリスト教のorthodoxy(正統性)でなく、orthopraxis (規範性)こそが問題となると主張することで、平和への貢献や生物の保護、貧困、迫害、非人道的行為への介入などの実践を、宗教の価値基準の俎上に載せたとする。こうした宗教多元主義は、教育のレベルにおいても実践され、ジョン・ハル (John Hull)が普及させたイギリスだけでなく、オランダやドイツの学校教育の現場でも強い影響力をもっているという。

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次に、ミュラー氏は排他主義・包括主義・多元主義それぞれのモデルの現状と問題、可能性を提示された。排他主義については、教会のとりわけ保守的な集団において機能しているだけではなく、学校においても根強い影響がみられ、キリスト教の他の宗教に対する優位性を主張する際に用いられることが問題点として指摘された。包括主義の場合、排他主義とは異なり、各々の宗教の正統性は担保されるものの、実際に他の宗教に開かれることは難しいという。とはいえ、宗教は議論や教義の中ではなく、生活の中での現実的な手段としてその権限を発するのであり、その意味で、他の宗教の信仰者との関係を重視する可能性も生じるであろうとミュラー氏は語る。多元主義に関しては、ドイツではこれまでの25年間、二つのレベルでの議論が行われてきたとする。まずは、研究の場や社会において、宗教的な起源や背景をもつ世界規模の紛争や、サミュエル・ハンチントン(Samuel Huntington)が示した「文明の衝突」と連動する形で、平和に対する責任が問われるようになり、宗教的絶対主義を捨て、平和への課題に取り組むべきだとする議論が多くみられた。その一方で、何事に対しても判断することを厭い、倫理的基準に拘泥するポストモダン的な姿勢が、宗教は議論するに値しないとする結論を導き出しているという。ミュラー氏が憂慮するのは、どの宗教においても、多くの宗教者が、真実に関する基本的な宗教的もしくは宗教間の問題に応答することを放棄している点である。宗教多元主義の議論が行われる第二のレベルとしてあがった宗教教育の場では、従来型の告白重視の教育から、"multi-faith approach” (多宗教的アプローチ)へと転換する動きがいくつかのドイツの地域でみられるものの、多くの地域ではいぜんとして旧来の方法をとり続けていることが指摘された。

最後に、ミュラー氏は学校を宗教・文化の相互理解のための社会における中心的な場であるとして、多文化社会に生き、異なる文化や宗教の人々と共生することを学ぶ場として学校が機能しなければならないと述べ、そのためにこそ宗教間・文化間でのアプローチが必要であると語った。ミュラー氏のいう宗教間のアプローチとは、多文化的な調和をめざすことではなく、対立や矛盾に対処する術や、多様性を許容し、共通理解をみつける能力を身につける取り組みとしてあるのだ。

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続いて、アニタ・ミュラー氏が、学校の現場において行われている試みのいくつかを紹介した。まず、宗教間の対話を宗教教育のカリキュラムに取り込む試みとして、キリスト教だけではなくその他の宗教の伝統を体験する時間が宗教教育のカリキュラムに盛り込まれていることがあげられた。具体的には、小学校やキリスト教系の学校で一般的に行われている礼拝に、キリスト教以外の宗教の信者の生徒が参加する機会があることや、イスラム教の儀礼や、歌や祈り等を体験する時間が設けられる例が紹介された。また、宗教間の理解を学校生活の一環として位置づけるために、生徒たちが話し合いや歌、読書、共通の課題に一緒に取り組むことを通じて宗教的な多様性を学ぶといった実践や、互いの共通点や違い、相互理解について話し合う時間を持つことで対話の方法を学ぶといった例が紹介されたほか、宗教を日常生活の一環として理解するために、物語を通じて宗教上の人物を学ぶ、あるいはイスラムのモスクを訪問するなどの活動を行う例などが示された。

両氏の発表の後、大貫隆教授の司会の下で行われた質疑応答では、ドイツでの宗教教育の実践をめぐって、イスラム教の教育などについての具体的な説明を求める質問が寄せられた。また、ミュラー氏が提示した宗教間の対話の枠組みは、人々が特定の宗教に属することを前提とするため、無宗教としばしば称される現在の日本のあり方がミュラー氏の理論にどのように位置づけられるのかという問題が取り上げられ、宗教は(それが「無宗教」という形をとるにせよ)政治が深く関与することも指摘された。

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ミュラー氏が講演の冒頭に触れられた通り、ドイツで宗教間の対話が要請されるようになった背景には、ドイツ国内に存在するイスラム教をはじめとする多くの非キリスト教の信者たちとキリスト教徒との対立が深刻化している状況がある。キリスト教の聖書学を研究されるミュラー夫妻が、多文化・多宗教の社会に共生する言語としてキリスト教を開き、他宗教との対話の場を築こうとする試みのなかで、ドイツと日本との比較にも積極的に取り組もうとされている姿勢が印象的な講演であった。ドイツの視点からの宗教間の対話の状況から日本の問題が捉え返され、双方向の議論のやりとりがなされたという点でも、参加者に多くの収穫をもたらした講演となったのではないか。

【文責・内藤まりこ】

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