【報告】ムハンマド・サレー「詩の可能性と作用」
4月11日、マレーシアの詩人ムハンマド・サレー氏のセミナー「詩の可能性と作用」が和やかな雰囲気のなかでおこなわれた(司会:中島隆博)。UTCP今年度最初の催事である。
サレー氏は冒頭で、「ナショナルな遺産としての文学」という命題を掲げた。文学は思想や知恵、価値判断、問題解決の手法などの宝庫である。文学の基本的な作用は、これら集団的な知(すなわち歴史)を教育し教授することであり、さらには、ナショナルなアイデンティティを保持することでもある。
次に、その具体例として、マレーシアの伝統的な四行詩パントゥン(Pantun)が紹介された。パントゥンでは上二句で自然が、下二句で恋心や教訓など人事が歌われる。各句の音節は10音節前後が通例だそうだが、8音節から12音節程度までは許容され、定型詩としては音節構造が比較的自由である。1・3行目と2・4行目の最後で必ず脚韻を踏む規則になっている。日常生活でも手紙でパントゥンを書いたり、別れの際にパントゥンを贈ったり、結婚申し込みの際に詠唱することもあるという。15世紀ごろに登場したパントゥンだが、そこにはマレーシアの社会における伝統的な人生訓や儀礼、慣習が蓄積されている。
また、詩は伝統的な知識の継承のみならず、癒しと愉楽という実践的な効果ももたらす。詩人は祈祷の言葉を投げかけるように、悲しみ傷ついた人を癒す力をもっている。さらに言えば、詩人の言葉によって癒されるのは聴衆のみならず、詩人自身でもある。詩の言葉は人々の苦しみを癒すことで喜びを生み出すのだ。
その後も、サレー氏は文学を、意味を伝達する語りとして、美的経験として、言語表現を刷新する活動として規定した。とりわけ、詩は道徳的意識として、物質主義や暴力に抵抗し、戦争と搾取に抵抗し、環境破壊に抵抗する、という主張は力強かった。サレー氏の信念によれば、詩によってこそ悲劇の苦しみが共有され、人間の大いなる善が呼び覚まされるのである。
聴衆からの質疑は、サレー氏が冒頭で披露した「ナショナルな遺産としての文学」という表現に向けられた。彼が紹介したパントゥンは諸個人や集団のレベルにおいて、詩の多種多様な可能性と作用を証示している。それなのに、なぜ、文学はナショナルな遺産やナショナル・アイデンティティへと収斂してしまうのだろうか。文学の越境的なあり方、さらにはその芸術的普遍性を考慮すべきではないか。マレーシアは歴史的にみてヒンドゥー教やイスラーム教が混在する地域であり、それゆえ、文学とナショナリティの関係もまた、より錯綜しているのではないだろうか。
先月の儒学シンポジウムのときと同じく、セミナー終了後、サレー氏に筆墨で一筆お願いした。この老詩人は軽やかな筆さばきで、墨痕鮮やかに端麗な文字を描き出した。
(文責:西山雄二)